加藤哲郎さんの 「イラク戦争から見たゾルゲ事件」講演録 (2005年4月、日露歴史研究センター)
という文章が面白い。思わず「なるほど」とうなづけてしまうところがある。
1.コミンテルンとアメリカ共産党
中国・日本におけるアメリカ共産党の影響力はかなりのものだ。かつて党創立者とされていた片山潜はアメリカ共産党を最初のキャリアとしている。野坂参三も一時期はアメリカを根城に対日工作を行っていた。その他にも多くの実例をあげることができる。
「しかしそこには秘密がある」というのが加藤さんの意見である。
1.コミンテルンとアメリカ共産党
中国・日本におけるアメリカ共産党の影響力はかなりのものだ。かつて党創立者とされていた片山潜はアメリカ共産党を最初のキャリアとしている。野坂参三も一時期はアメリカを根城に対日工作を行っていた。その他にも多くの実例をあげることができる。
「しかしそこには秘密がある」というのが加藤さんの意見である。
30年代のアメリカ共産党というのは、アメリカ政治のなかでは影響力を持たない泡沫政党でした。しかしコミンテルンの中で、一段と重要な存在になっていました。
それがなぜなのか、そこにゾルゲ問題をあつかううえでの勘どころがある。
2.コミンテルンとフロント組織をつなぐ結節点
加藤さんの判断として、アメリカ共産党はアメリカ労働者・人民の前衛政党としての側面の他に、資本主義体制におけるコミンテルンの“偽装出張所”(情報活動組織)としての側面を持っていたのではないかと考える。
この2つの側面を反映して、党内にも国内活動を主体とするフォスター派と国際活動を主たる活動の場とするブラウダー派に分かれ対立していたと言う。
2.コミンテルンとフロント組織をつなぐ結節点
加藤さんの判断として、アメリカ共産党はアメリカ労働者・人民の前衛政党としての側面の他に、資本主義体制におけるコミンテルンの“偽装出張所”(情報活動組織)としての側面を持っていたのではないかと考える。
この2つの側面を反映して、党内にも国内活動を主体とするフォスター派と国際活動を主たる活動の場とするブラウダー派に分かれ対立していたと言う。
加藤さんは、とくに汎太平洋労働組合(PPTUS)が、アメリカ共産党の東アジア連帯活動の中核を形成していたこと、それが国共合作崩壊後のコミンテルンの中国工作と完全に同調していたことを強調する。アール・ブラウダー書記長自身、党内の前職はPPTUSの上海駐在代表だった。
アメリカ共産党は、まるで人材派遣業みたいに、モスクワの必要と求めに応じて、党員を送り出しました。世界中どこへ行っても活動できる人材を、アメリカ共産党は、即座に供給することができたのです。
ということで、アメリカ共産党が自国の解放運動に責任を持つ階級政党と言うよりは、海外派遣社員のリクルート組織であった。そうなっていった二つの理由を示す。
一つは、現地で行われるどんな秘密活動にも参加できる、現地人と同じ肌の色のバイリンガルを供給できたからです。30年代にはアメリカ共産党内に、一般細胞の系列とは別に、16の言語別グループがありました。アメリカ共産党日本人部は200人が組織されていました。いま一つ、30年代米国共産党指導部はブラウダーら国際派が占めていたことです。国際的な人の派遣はニューヨークの党本部が直接タッチしました。
ということで、ブラウダー書記長が上海での国際活動についてコミンテルンと密接な連絡をとっていた証拠を明らかにしている。
「なぜか」という疑問には直接答えていないが、おそらく蒋介石の寝返り反共化の後、コミンテルンの中国での活動が困難になったからだろう。そのため任務のかなりの部分(とくに人脈作り)をアメリカ共産党に依存したのではないだろうか。
ゾルゲの1933年夏日本入国の際も、米国共産党が活動の詳細について指示をして、バンクーバーから横浜に入っている。
「なぜか」という疑問には直接答えていないが、おそらく蒋介石の寝返り反共化の後、コミンテルンの中国での活動が困難になったからだろう。そのため任務のかなりの部分(とくに人脈作り)をアメリカ共産党に依存したのではないだろうか。
ゾルゲの1933年夏日本入国の際も、米国共産党が活動の詳細について指示をして、バンクーバーから横浜に入っている。
ということで、アメリカ共産党の日本・中国の階級闘争への関与はたんなる国際連帯ではなく、アメリカ共産党がコミンテルンに対して負った国際的任務の一つになっていたのであろう。
これが加藤さんの読みだ。
3.コミンテルンの偽装組織
たしかにそうだ。蒋介石の裏切りにより国共合作が失敗してから後のコミンテルンは、完全な手詰まり状態にあった。このときリベラルな装いで上海の政治シーンに登場した左翼外国人は、なんらかの形でアメリカ共産党(プロフィンテルン)の影響を受けていた。
それは蒋介石の恐怖支配、二度の上海事件と日本支配、そして日本軍による「租界」の閉鎖までかろうじて繋がれていく。
加藤さんは、ゾルゲと尾崎の出会いを “いつ、どのように” 問題に矮小化せずに、大きな文脈の中に捉えるべきだと主張しているのであり、たしかにそれは慧眼である。
その大きな文脈とは、コミンテルン→アメリカ共産党による現地ネットワークの形成であり、尾崎はそこに絡め取られた巨大な獲物であったということである。
4.スメドレー説を目の敵にする必要はない
加藤さんは学者だから、スメドレー説を許せないと考えているかも知れないが、ゾルゲが上海に来たときすでにスメドレーと尾崎は知己の関係にあった。それも相当の関係である。スメドレーが味方に引き込もうとしてもなんの不思議もない。
ゾルゲとスメドレーは同じフランクフルター・ツァイトゥングの特派員である。ただしゾルゲが身分を明かしていたかどうかは不明だが、ともにアメリカ共産党系のルートで動いていたと考えるなら、同志関係であることは気づいていたはずだ。
直でスメドレーが動いたのではなく、いったん情報をPPTUSに上げ、そこの判断でゾルゲに話を持ちかけたのではないだろうか。
そこが納得できれば、誰が動いたか、いつどこで会ったのかはどうでも良いことになる。
これが加藤さんの読みだ。
3.コミンテルンの偽装組織
たしかにそうだ。蒋介石の裏切りにより国共合作が失敗してから後のコミンテルンは、完全な手詰まり状態にあった。このときリベラルな装いで上海の政治シーンに登場した左翼外国人は、なんらかの形でアメリカ共産党(プロフィンテルン)の影響を受けていた。
それは蒋介石の恐怖支配、二度の上海事件と日本支配、そして日本軍による「租界」の閉鎖までかろうじて繋がれていく。
加藤さんは、ゾルゲと尾崎の出会いを “いつ、どのように” 問題に矮小化せずに、大きな文脈の中に捉えるべきだと主張しているのであり、たしかにそれは慧眼である。
その大きな文脈とは、コミンテルン→アメリカ共産党による現地ネットワークの形成であり、尾崎はそこに絡め取られた巨大な獲物であったということである。
4.スメドレー説を目の敵にする必要はない
加藤さんは学者だから、スメドレー説を許せないと考えているかも知れないが、ゾルゲが上海に来たときすでにスメドレーと尾崎は知己の関係にあった。それも相当の関係である。スメドレーが味方に引き込もうとしてもなんの不思議もない。
ゾルゲとスメドレーは同じフランクフルター・ツァイトゥングの特派員である。ただしゾルゲが身分を明かしていたかどうかは不明だが、ともにアメリカ共産党系のルートで動いていたと考えるなら、同志関係であることは気づいていたはずだ。
直でスメドレーが動いたのではなく、いったん情報をPPTUSに上げ、そこの判断でゾルゲに話を持ちかけたのではないだろうか。
そこが納得できれば、誰が動いたか、いつどこで会ったのかはどうでも良いことになる。
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