尾崎とゾルゲの出会いをいつ、だれがセットしたのか?
この問題はいまだ決着がついていないようだ。

1.加藤哲郎説

ウィキペディアのアグネス・スメドレーの項目は加藤哲郎の説を引用し、他説を否定する。
ゾルゲ裁判の判決では「スメドレーがゾルゲに尾崎秀実を紹介した」とされた。
ただし、実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣されていた鬼頭銀一であった。
尾崎は具体的に供述したがゾルゲが鬼頭銀一とのつながりを強硬に否定したために、最初の紹介者はスメドレーということに調書が統一され、裁判でもこれが採用された。
加藤哲郎の説は、『ゾルゲ事件 覆された神話』という本に記載されているらしい。(平凡社新書 2014年)
記事の脚注を見ると、記載のほとんどが同書によっているようである。ここでは加藤哲郎説と呼んでおく。

2.過大評価?
ウィキペディアのリヒャルト・ゾルゲの項目は、上海時代の記述はかなり粗っぽい。(東京時代は詳しい)
1930年に、ソ連の諜報網を強化と指導を目的として上海に派遣される。
半年程度で現地の指導的立場となり、中華民国全土に情報網を持つ。
ゾルゲ諜報団の日本人は、尾崎秀実、鬼頭銀一、川合貞吉、水野成、山上正義、船越寿雄であった。
スメドレーは尾崎秀実とゾルゲの橋渡しをしている。実際に二人の出会いに重要な役割を演じたのは、アメリカ共産党から派遣された鬼頭銀一である。
と、どうにでも取れる文章になっている。

3.いったいどっちなのさ?

両論併記なのはウィキペディアの尾崎秀実の項目も同じだが、もっと盛大にやらかしている。
常盤亭という日本料理店において、スメドレーの紹介で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」ことリヒャルト・ゾルゲと出会う。
南京路にある中華料理店の杏花楼で、二人は会った。ゾルゲはコミンテルンの一員であると告げ、協力を求めた。
実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸という運送会社に潜り込んでいた鬼頭銀一である。
鬼頭云々の記述の根拠は、スメドレーの記事と同じく加藤説である。
二人が初めて会ったのが常磐亭で、ゾルゲが打ち明けたのが杏花楼ということになるが、どうもちぐはぐだ。どちらかを採用してもう片方は参考情報として注記するというのが引用者のマナーだろう。

4.良い記事だが…
ウィキペディアにはもう一つ、ゾルゲ諜報団という項目の記事がある。こちらの方をゾルゲの記事にしたいくらい良くまとまった記事だ。
ゾルゲは中立国で連絡員として情報や資金の受け渡しに携わっていた。その合間に労働組合やイギリス共産党の内部事情を探り、兵器工場の稼動状況について報告した。
これが労農赤軍本部第4局局長のヤン・ベルジンの目に止まり、1929年にスカウトされ、本格的に諜報員としての訓練を受けた。
ベルジンは、中国共産党と中国国民党の対立構造、内部事情を調査するためゾルゲを中国に派遣した。
このとき「中国共産党との交渉は持つべからず」、「共産主義活動には従事すべからず」の2点を厳守するよう命じられる。
なおラムゼイは暗号名であり、上海での偽名はフランクフルター・ツァイトゥング特派員「ジョンソン」であった。
ゾルゲはもう一つの偽名、フランクフルト・アム・マインの『地政学雑誌』の特派員「ドクトル・ゾルゲ」を用い、蒋介石や何応欽などとの面識を得た。
ゾルゲは32年まで上海に滞在した後、いったんソ連に戻り、33年9月6日に横浜に上陸する。
以上が上海での活動の概要である。内容豊富である。しかし二人の出会いがいつ、どこでかは明らかにされていない。
なおウィキペディアにはゾルゲ事件という項目もあるが、逮捕劇以降に的を絞った内容。

5.鬼頭銀一という人物
グーグルで検索しても、鬼頭銀一の名を冠したファイルは見当たらないが、関連ファイルはいくつか見つかる。その多くが加藤哲郎論文の紹介である。
まず表題である「覆された神話」とは、誤った「伊藤律スパイ説」のことらしい。とりあえずそのことは保留しておく。
ついで鬼頭という人物が紹介される。
鬼頭銀一は1903年に三重県に生まれ25年にアメリカに渡りそこで共産党に入党、31年に上海で日本の特高に検挙されている。
その後は足を洗い、37年にかけて神戸でゴム製品商をしていた。37年には南洋パラオ・ペリリュー島で雑貨店を始める。
38年に訪ねてきた30歳前後の男に“ゆであずき”の缶詰をすすめられ、間もなく苦悶し息絶えた。遺族は、謀殺ではないかと疑っている。
引用はここまで。
結局わからずじまいだ。