不破倫三について

別にどうって言うことはないのかも知れないが、不破倫三という、不破哲三と似た名前の人がゾルゲ事件に(エピソード的に)登場する。

不破倫三も不破哲三同様に筆名であり、本名は増田豊彦と言う。
ウィキペディアによると、文筆家・ジャーナリストで(1900年5月22日 - 1974年7月11日)のあいだ生きていた。

1.増田豊彦の経歴

1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、設立されたばかりの高松高等商業学校の教授となっている。

1926年、労働農民党結成に参加し調査部長に就任した。1928年に同党が解散すると、ドイツ語文献の翻訳活動に没頭したようだ。
1931年、ベルリンに留学し、1932年、朝日新聞ベルリン特派員に採用され、帰国後に東京朝日新聞に入社する。

1934年、東亜問題調査会に配属され、ここで尾崎秀実と出会うことになる。
ただその後は左翼とは距離をおいたようで、終戦時には軍から委託されたジャワ新聞の社長として現地で終戦を迎えている。
戦後の活動にも取り立てて注目すべきものはない。

2.不破倫三の経歴

不破倫三は増田豊彦が左翼文献を翻訳・発行するにあたって用いた筆名である。由来はかなりはっきりしていて、レーニンの後継者と目されながらスターリンによって粛清されたブハーリンのもじりである。

あまりウィキを見ても判然としないが、翻訳の一覧を見ると、不破の翻訳のほとんどが1927年に集中しており、労農党の調査部長としての仕事をこなしていたものと思われる。

28年にヴァルガの経済学書を出版しているので、この頃から本腰を入れ始めたと思われる。

そのような経過の中で29年にリヒャルト・ゾンテル著「新ドイツ帝国主義」という本を翻訳発表した。ゾンテルというのはゾルゲの筆名である。
本

ドイツ語の原著が発行されたのが28年だから、えらく早い。この本に限らずドイツ語文献の翻訳出版はほとんど同時発表かと思うくらい早い。日本人の食いつきがいかにすごかったかが分かる。

3.ゾルゲとの接点

卒業したばかりで高松高商教授として赴任し、田舎暮らしを強いられた。漱石の坊っちゃんと似ていなくもない境遇だ。
そんなことで4,5年の鬱屈した生活を送ったあと、多分そちらの系統からは足を洗ったのであろう。
1930年ころのベルリンといえば、ドイツ共産党の鼻息がもっとも荒かった頃で、国崎定洞ら日本人学生のグループも活発に活動していたはずだ。
ゾルゲもモスクワを離れベルリンで上海行きの準備としていたのであろう。
しかし、前年まであれ程の翻訳活動をしていた増田が、ウィキで見る限りはまったく音無しとなっている。帰国後は東京で言論人としての活動を続けているが、なにか革新的なアクションを起こしている気配はない。
ゾルゲとは、尾崎秀実という接点があるが、尾崎を介してゾルゲと益田が出会ったという記録は残されていない。ゾルゲとの接触の可能性はあった。しかし、ゾルゲが「新ドイツ帝国主義」の著者リヒャルト・ゾンテルだと気づく可能性は限りなく低かった。
おそらく尾崎でさえ、ゾンテルがゾルゲであることも、同僚の増田が不破であることも知らなかったろうと思われる。

4.不破哲三と不破倫三

不破哲三の本名は上田建二郎である。同じ東大卒ではあるが、二人の間にまったく接点はない。

不破哲三本人は不破倫三の名を意識しているかどうかについて問われ、関係ないと答えている。
これはかなりウソっぽい。戦後、不破哲三が活動を始めた頃、巷間にまともな本はなかった。図書館にはさらになかった。古本屋を回っては戦前の著書を買い揃えるのが日課だった。

古本屋の店先で、絶対に不破哲三は20年前に出版された不破倫三の訳本を見ていたはずだ。

党に入るとみんなペンネームをつけるもので、それで一人前になった気がしたものである。
名前のつけ方はきわめていい加減、本名に似ていなければどうでもよいので、佐藤正とか鈴木一郎みたいにこの上なくありふれた名前をつける人もいれば、香月徹みたいなしゃれた名前にする人もいた(何故か北小路敏は本名)。私は若草薫だったが、これは駅前のパチンコ屋「若草」によるものだ。名字が若草なら名前は薫以外ないだろう、と気に入っていた。
不破さんは前に買った本の訳者のペンネームが気に入って、深い意味もなく拝借したのではなかろうか。