この絵は四街道市役所のホームページから拝借したものである。
おそらく衛星写真に海抜20~30m位の等高線を重ね合わせたものではないかと思う。
市川=船橋以西はいじってないが、こちらにも同程度の海進があったものと想像される。
香取海
この「地図」を紀元前後の東関東だとすると、次のように言えるだろう。

東関東には鹿島神宮と香取神宮を両端とする巾着型の湾があった。これが香取海である。
これは鹿島側から南に伸びた砂嘴によってせき止められ、潟湖となった。
その時点では、印旛沼、手賀沼を中心に現在の霞ヶ浦・北浦を凌ぐほどの水面があったが、これらは鬼怒川・小貝川の沖積物により徐々に陸地化していった。

これらの陸地は土木技術の開発により新田づくりの対象となる。香取湖は岡山平野、河内湖、大和盆地、巨椋池、琵琶湖南岸、加賀平野につぐ潟湖干拓型モデルの最大のパイロット事業となったであろう。

造田工事には利水が必要で、利水は取水と排水に分かれる。泥状地を水田とするためには、自然利水とはまったくレベルの違う数年がかりの大工事となる。
そのためには一般的共同体ではなく、公費・労力の強制支出をともなう階級的共同体が求められる。
このような共同体を創出できたのは、武装共同を基盤とする天孫族社会のみであった。

初期の天孫族は越後から信濃を経由して群馬に入ってきた。いわゆる毛の君であろう。彼らはさきたま古墳群あたりを拠点にしながら干拓事業に勤しんだのであろう。

二つの可能性がある。彼らは九州王朝の臣下であり、ヤマト王朝の臣下ではなかった可能性がある。
もう一つは彼らは弥生人ではなく、縄文人を直接使役していた可能性がある。銅鐸文明の東端は加賀と遠江を結ぶ線であり、それ以東においては比較的まばらだったかも知れない。

ヤマトタケルの東遷は、さきたまの方角には向かっていない。真間から鹿島川をさかのぼっているのではないかと思わせる。
初期の大和政権の進出先は香取湖から常陸へと向かう。あたかも、さきたまや毛の君を避けているかのようである。
後になってだが防人の動員も常陸に大きく依存しているようである。