梅原猛氏の出雲王朝論
本を買うほどの気もないので、ネットの井沢さんとの対談を読ませてもらうことにした。
週刊ポスト2014年9月19・26日号

Q1 出雲王朝はどのような政権だったか?
A 『記紀』に述べられている神話はヤマト王朝以前に出雲王朝があったことを示している。
出雲王朝の祖先であるスサノオノミコトは、『日本書紀』によれば、朝鮮半島からやってきた。

Q2 出雲王朝はどのような王朝だったか?
A 銅鐸文化です。銅鐸は朝鮮半島の馬鈴が原型である。それが大きくなって銅鐸となった。

Q3 オオクニヌシの役割は?
A スサノオは出雲にやってきて出雲王朝を作った。スサノオの子孫のオオクニヌシノミコトは、近畿に進出して西日本を統一した。

Q4 ヤマト王朝との関係は?
A 西日本を統一した出雲王朝を、神武一族が滅ぼした。彼らは南九州からやって来て、出雲王朝を滅ぼして大和王朝を建てた。

Q5 銅鐸と銅鏡の関係は?
A 出雲王朝の信仰のシンボルは銅鐸であったが、ヤマト王朝においては銅鏡だった。銅鐸は破壊されてから埋められ、存在そのものを消された。それにより出雲王朝の権威は否定された。

Q6 出雲大社が存在するわけ
A ヤマト王朝は出雲王朝を滅ぼした。滅ぼされたものは祟るからそれを鎮魂しなければいけない。

これまで梅原さんの文章は読んだことがない。シロウトの言説をシロウトが読んでもろくなことにはならないと考えたからだ。
Q6はどうでもいい話だが、Q1~Q5までの5点はこちらもそう簡単には引き下がれない問題を含んでいる。


Q1については全面的に同意する。
ただし出雲王朝は九州王朝と同じ天孫族(騎馬民族)の末裔だ。衛氏朝鮮の血を引く扶余系民族(非ツングース系)で、おそらく韓半島南部の「高天原」から新羅方面に向かった支族の流れだろう。本隊は任那から対馬、壱岐と渡り唐津から上陸したのではないか。人種としての同質性は、後に神武と長髄彦との遭遇において証明される。

Q2については全面的に否定する。
出雲王朝(スサノオ・オオクニヌシ系)は徹底した反銅鐸原理主義者だった。
鳥取中~西部に2つの遺跡がある。ひとつは青谷上寺地(あおやかみじち)、もう一つは妻木晩田(むきばんだ)遺跡だ。2つは紀元0年から200年のあいだ、ほぼ同時に存在した。しかし遺跡のあり方はまったく対照的だ。
青谷上寺地は海に面し広大な田地を擁し、活発な海上交易を営んでいた。そこに暮らす人々は長江文明に端を発する弥生人であり、銅鐸文化を共有していた。妻木晩田は山城を構え戦闘態勢の中に生活していた。彼らの墓(方墳)は明らかに高句麗につながる北方系の特徴を示していた。銅鐸につながる遺物は見当たらない。両者は時代を共通していた。銅鐸文明圏に方形墓文化人戦闘集団が刺さりこんだと見る他ない。
紀元150年ころ、青谷上寺地は突如滅びた。数百体の虐殺された遺体が残された。妻木晩田はその後100年を繁栄のうちに過ごした後、徐々に力を失った。紀元250年ころにはほぼ生活跡が消滅した。山を降りたのである。
この2つの遺跡をどう読み解くかが、日本の前古代史のカギを握っていると私は思う。大胆に推測するなら、妻木晩田に暮らす出雲王朝系民族が青谷上寺地の銅鐸人(弥生人)を武力により支配するようになったのだと思う。
そのさい、天孫族(シャーマニズム)は銅鐸信仰(アニミズム)を危険視し徹底的に排除した。銅鐸に象徴される青銅器文明は、彼らには危険なほどに美しすぎたのである。この宗教弾圧は全国各地で展開され、「倭国大乱」を構成したのではないかとおもわれる。

Q3については一部について同意する。
スサノオは出雲にやってきて出雲王朝を作った。スサノオの子孫のオオクニヌシは九州王朝との戦いに敗れ、出雲を譲りディアスポラとなった。ただし出出雲と国譲りとの前後関係・因果関係は不確かである。別個に発生した可能性もある。
オオクニヌシ、あるいはその子であるオオモノヌシの時代、オデッセイたちは畿内に到達し、前大和王朝(あるいは後期出雲王朝)を建設した。3世紀後半、纏向王朝がこれである。
先住民である銅鐸人は天孫信仰を強制されるが生存は許された。畿内には銅鐸人とともにかなりの縄文人も暮らしており、これらが三層社会を構成した。
オオモノヌシは岡山・播磨を経由して河内・ヤマトに到達したと思われ、その間に児島湾の干拓事業などで大規模造田土木のノウハウを身につけたとみられる。

Q4については基本的に賛成。
神武一族が出雲王朝を滅ぼした。ただし滅ぼしたというのは正確ではない。支配が3階建てになったというだけの話だ。出雲王朝による現地人支配の枠組みはそのまま生き続けた。
現地人というのは弥生人である。それは長江からのディアスポラと縄文人の混血である。後着の天孫族が彼らの人口を上回ることはなかった。
神武系の支配は根付くことなく絶えた。10代目崇神天皇の出現により出雲系が完全復活し、実質的に九州王朝系の支配は絶えたといえる。ではなぜ九州王朝の後継を名乗ったか。それは九州王朝=倭国が桁違いの格上で、従属関係を継続するほうが得策であったからであろう。

Q5は基本的に否定する。
たしかに銅鐸は破壊されてから埋められ、存在そのものを消された。しかし銅鐸は長江文明の流れをくむものであり、出雲王朝は天孫信仰を旨とする集団である。妻木晩田の人々が青谷上寺地の人々を集団虐殺し、銅鐸文明を否定したように、近畿に進出した出雲王朝は銅鐸文明を葬り去った。そして神武のヤマト王朝はそれを引き継いだのである。
弥生人が銅鐸を信仰の対象としたように、銅鏡が1対1の照応関係にあるか否かは議論が必要だろう。銅鏡は中国文明との対応関係で問われなければならない側面がある。また、並行して銅剣の意味付けも必要になるであろう。いずれにせよ肝心なことは、銅鐸が異教の象徴として破壊され放棄されたことである。

ということで、梅原説は、既存の説に対するチャレンジとしては積極的なものがあるし、古代史学への挑戦の一つとしては評価されるものと思う。
ただ、すでにそういうレベルの話はとうに過ぎ去っている。現在の論争はより複雑かつ全体的な論理構築になっていると思われる。