おそらく「尾崎秀実の上海」を描くことは、上海の果たしたダイナミックな役割から見れば、その泡ぶくの一つを描写にするに過ぎないだろう。
それがいかなるところから、いかにして発生したかを書き始めると実施の筋書きの数倍に膨れ上がり、面白くもない物語になってしまうだろう。
それを面白いものにするためには、尾崎自身の行動に対する綿密な調査が必要であろう。その上で要領のいい刈取りとイメージの膨らませが必要であろう。
岩波新書の尾崎秀樹の「上海1930年」はその視点といい、事実の収集者としての資質といい、文句ないものである。
とりあえず、上海の外国人の動きを1930年を中心に前後数年のスパンで拾ってみよう。前提知識として中国人民族主義者や共産主義者の動きに関する知識、上海そのものの政治的・行政的・軍事的変遷についての知識、日本人の進出と侵略の経過についての知識が必要になるので、関係する年表をあたってもらいたい。

1925年(大正14年)
ウィットフォーゲル、「目覚めつつある支那」を発表。日本資本の紡績工場でのストライキより書き起こし、5.30事件を詳細に記録。
尾崎はこれを読んで中国に注目するようになった。
尾崎、東京帝大法学部から経済学部大学院に進学。唯物論研究会に参加し、大森義太郎に学ぶ。

1926年(大正15年)
尾崎、東京の朝日新聞社に入社。草野源吉の偽名で社会主義の研究会を開催。

1927年(昭和2年)
4月 上海に入った蒋介石のクーデター。国共合作が破綻し、左翼に大弾圧が加えられる。
10月 尾崎秀実、希望して東京朝日新聞の学芸部から大阪朝日新聞の支那部へ転勤。転勤後は大原社会問題研究所の「中国革命研究会」(細川嘉六)に顔を出すようになる。
27年 魯迅、上海に移る。
27年 スメドレー、精神的危機を克服。「女ひとり大地を行く」を著す(発行は29年)
27年 夏衍、帰国後中国共産党に参加、左翼文学芸術運動に従事する。

1928年
6月 蒋介石軍が北京を制圧。北伐が完了。北京を支配していた張作霖は満州に引き揚げる。
11月、尾崎秀実、朝日新聞上海通信部に赴任。3年余り上海に妻とともに在住。
12月 スメドレー、フランクフルター・ツァイトゥング紙の特派員として中国に赴任。シベリア鉄道で満州に入る。
スメドレーはこの時点ですでに強固な共産主義者であり、なんらかのミッションにもとづいて行動していると思われる。フランクフルター・ツァイトゥングは左翼的な新聞で、共産主義者も多く参加していた。コミンテルンの隠れ蓑になっていた側面もある。

スメドレー旧居
スメドレーの住んだ上海のアパート このアパートの2階で住んでいた。大韓民国臨時政府旧址から西に300メートルほど。

エドガー・スノー、コロンビア大学の新聞学科を卒業した後、汽船のデッキボーイとして世界周遊に出る。上海に上陸し居つく。チャイナ・ウィークリー・レビューに就職する。この時点では共産主義とはまったく無縁の人。
スノーの『極東戦線』は大変な名文で、息も継がずに読み進んでしまう。「赤い星」についてはいろいろ意見もあるが、スノーが文章家であることは認めなければならない。

1929年
1月 スメドレー、張学良の支配する満州に3ヶ月間とどまり、日本の武力干渉の状況を記事にする。

5月ころ スメドレー、上海に移り、茅盾、魯迅、宋慶齢(孫文夫人)、蔡元培、林語堂、胡適などと交友を深める。

8月 尾崎、腸チフスに罹患。日本人の経営する病院で2ヶ月の入院生活を送る。

10月 中国革命互助会が結成され、共産党の支援に当たる。魯迅もこれに参加。左連の母体となる。

29年 スメドレーの自伝的小説「女ひとり大地を行く」が刊行される。表紙には美醜を越えた面構えの肖像写真が飾られる。のちに尾崎が邦訳を担当。

11月 自供によれば、尾崎がパレスホテルのロビーでスメドレーに会う。紹介者のワイテマイヤーは左翼系の「時代精神」書店の経営者。実際に「面白い女性がいる」と紹介したのは新聞連合の大形孝平だったが、尾崎はこれを伏せた。

11月 ゾルゲ、モスクワを発ちベルリンに向かう。その後マルセイユに出て日本行の定期航路に乗り込む。そのしばらく前に、自らの判断でコミンテルンから赤軍第4本部(情報部)に転勤している。

29年 中西功、上海の東亜同文書院に入る。中国共産主義青年同盟などに参加。42年にゾルゲ事件関連で死刑を求刑される。

1930年
1月 ゾルゲ、上海に到着。スメドレーと同じくフランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」を名乗る。ゾルゲ・グループを組織したのはスメドレーとされる。

2月15日 中国自由運動大同盟の成立大会が開かれる。魯迅、郁達夫、田漢、夏衍、陶晶孫、鄭伯奇らが指導する。

3月2日 左連が結成される。

7月 李立三の指導する長沙蜂起、南昌蜂起が失敗。この後蒋介石政権の弾圧が強化され、上海での活動は非合法も含め困難となる。

9月17日 フランス租界で魯迅の50歳の記念パーティー。スメドレーは開催に尽力した。初対面ではなかったとされる。

9月 河合貞吉が上海入り。田中忠夫、王学文らと中国問題研究会を組織。尾崎も運営に協力したという。

10月 尾崎によれば、このころ鬼頭銀一が接触を図ってきた。鬼頭はアメリカ共産党員で、太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸の上海支社に潜入していた。

11月 東亜同文書院で学生ストライキ。処分者を出すことなく要求を実現。

1931年 
1月 左連幹部5人が逮捕、虐殺される。尾崎、犠牲者の作品をふくむ「支那小説集 阿Q正伝]の発行に協力。白川次郎の筆名で翻訳を担当。

尾崎が外国人記者クラブでゾルゲと会見。



尾崎によれば調停役は鬼頭銀一であった。ただしゾルゲは明らかにしていない。

ニム・ウェールズ、ジャーナリストを志して上海に渡る。ユタ州の生まれでソルトレークの州立大学卒。政治的には無色。

1932年(昭和7年)
2月末 尾崎、大阪本社の命令により日本に戻り、外報部に勤務。
ゾルゲ、日本に活動の場を移す。職名はアムステルダム・ハンデルス・フラット紙の記者であった。
6月初め 宮城与徳が仲介し、日本に異動したゾルゲと尾崎が再会。尾崎は諜報活動に従事するよう要請を受け承諾する。コード名は「オットー」。
上海で「民権保障同盟」が発足。魯迅、宋慶齢、蔡元培、林語堂、胡適にくわえ、スメドレーも発起人となる。
エドガー・スノーとニム・ウェールズが上海で結婚。

1933年
5月 イギリス警察が「上海におけるソ連・スパイリスト」を作成。13人の名前にはスメドレーとゾルゲが記されている。スノーの名はなかったということになる。
9月 ゾルゲ、記者として来日。(このあたり引用文献により事実が錯綜している。この文章は相当怪しい。いずれ整理する)
スメドレー、フランクフルター・ツァイトゥングからマンチェスター・ガーディアンに転籍。八路軍ゲリラを体当たり取材。『中国紅軍は前進する』『中国人民の運命』『中国は抵抗する』『中国の歌ご
え』などを立て続けに発表。
スメドレーの長征
     長征参加時のスメドレー
転籍の理由がよくわからないが、コミンテルンの統制を外れたのだろうか。

1934年 
10月 尾崎、東京朝日新聞に転じ東亜問題調査会に勤務。
エドガー・スノー夫妻、北京に拠点を移し中国共産党との関係を深める。
ニム
ニム・ウェールズ(本名ヘレン・フォスター・スノー)

1935年
ゾルゲ、いったん離日する。この間モスクワに戻ったらしい。

1936年
5月 ハロルド・J・ティンパーリ、北京から上海に移り、マンチェスター・ガーディアン紙の専従特派員となる。一時南京へ移動するが上海事変拡大に伴い上海に戻る。南京事件でのマギーの写真を広く流布する。

ゾルゲ、オットー独大使の私設情報官に就任。

鹿地亘、獄中転向の後上海に渡る。第二次上海事件を機に上海を脱出。重慶政府内で「日本人民反戦同盟」を結成。

1937年
4月 長谷川テル 中国人留学生と結婚し上海に渡る。その後重慶政府で対日反戦放送にたずさわる。緑川栄子のペンネームを用いた。夫妻の墓地は佳木斯にある。

1938年
カナダ人医師ノーマン・ベチューン、延安で診療活動を開始。ベチューンは臨床医として労働者の貧困に接し、共産党員として社会変革に参加するようになる。

1941年 

ゾルゲ事件が発覚。尾崎も首謀者の一人として逮捕される。

1944年
11月7日、巣鴨拘置所で両名の死刑が執行。


底本を間違えた。尾崎秀樹の「上海1930年」(岩波新書)という本は、まことにつまらない本で、一定程度の知識を持った人間には何の役にも立たない。その歯がゆったらしさにはイライラする他ない。
少し他の文献もあたった上でもう少しマシな年表にしたいと思う。とりあえず、中国共産党関係の歴史は毛沢東とそのライバルたちの年表を見ておいてほしい。