倭の五王と大和政権の越えがたい断絶

記紀を無視して古代史を構築する限り、倭の五王と大和の大伴・物部連合による支配の間には断絶がある。

そこで何があったかというと、記紀にあるかぎりは筑紫の君磐井の反乱をおいてない。

この事実は記紀否定派である私も認めざるをえない。ただ中国や朝鮮の文献による裏付けはない。

大和政権にはその世紀の末まで、まともな文献はない。おそらくこの政権は「文盲」政権であったと思う。

だから、古事記ではたんなるレジェンドとして扱われている。それが日本書紀で一気に月日まで詳らかにされる。これは「文盲の民」にできる仕業ではない。

そこには日本書紀の作者が入手し得た「新資料」があったはずだ。それは百済本紀をおいて他に考えられない。(「九州王朝」の本紀という説もある。そういうものはあっただろうが、それが150年を経て突如発見され、大和政権に引き継がれたとは考えにくい)

「磐井の乱」の記述から言えること

おそらく国の雌雄を決するような大規模な戦闘が、九州北部で展開されたのだろう。それだけは間違いない。

それを古事記の磐井の乱と関連付けたのは日本書紀の作家だから、そこから先は信用しないほうが良い。

この戦闘によって、一気に雌雄が決したものなのか否かもわからない。百済本紀そのものは現存せず、新羅本記には日本国内での政変については全く触れられていないからである。

にもかかわらず、500年代初頭からの倭の対外的プレゼンスの極度の低下は明らかである。つまりこの内乱は事実上共倒れに終わったと見るべきであろう。

新羅本紀の示唆するもの

我々が手にしうる唯一の同時期文献としての新羅本記には、倭の「閉じこもり」と対照的に、新羅が一大国として成長していく過程が明らかにされている。

400年代まで新羅本記には倭の侵攻が度々記録されている。その最後の記録が切りの良い西暦500年、「倭人が長峯鎮を攻め落とす」というものである。

そして502年以降は倭王は消息を絶ち、その後中国文献には倭王は登場しない(中国政権にみずから上表したのは478年が最後)

その翌年、新羅は新羅国王の称号を確立した。514年には法興王が即位。彼の在位中に、南朝の梁に朝貢し国家としての認定を受ける。南朝方から見て新羅は倭の属国ではなくなったことになる。

522年には伽耶王が花嫁を求め、532年に金官国王が財宝と家族と共に来降。532年に年号が始まった。

次の真興王の時代には、高句麗と対立する百済が講和を求めた。このとき、新羅は百済に援軍を送っている。

545年には初の国史が編纂された。記紀より150年以上も前のことだ。この時点で大和政権をはるかに凌駕する水準と見てよい。

逆に言えば倭はこの間(502~514年)に、ひどくみすぼらしい水準にまで没落していることになる。西暦500年以降、新羅本記は日本という存在を完璧に無視し続けている。

(ただしそこには意図的なものもあったかもしれない。隋書では「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」とある)

倭王武の上表文を素直に読む

倭の五王の時代日本は、自他ともに認める朝鮮半島南部の支配者だった(支配と言ってもかなりいい加減だが)。被支配者の新羅に国史があり、日本にそれに類するものがなかったとは考えにくい。なかったのではなく消滅したものと考えるのが自然であろう。

倭の五王が築いた倭国家は崩壊した。それを崩壊に至らしめたものが大和政権であったかどうかはわからない。百済本紀を知った後の者たちが、自分たちの手柄として、自らのレジェンドの中に組み込んだだけなのかもしれない。

ただいずれにせよ、一大軍事国家が崩壊したことだけは間違いない。そして大和(大倭)を名乗る大和政権が、ふたたびアジア史の舞台に登場するには、半世紀以上を要したことも間違いない。

裴世清が行ったのは大和

隋書(裴世清の紀行)に現れる倭国が大和政権であることは間違いなさそうだ。それが筑紫以東を(秦国を除いて)支配していたことも間違いない。そしてその国が、倭の五王の形成した元の倭国とは断絶した存在であったことも間違いない。タリシホコには五王に関する知識は全くなかった。これが西暦600年頃のことだ。

どうして旧唐書は軽んじられるのだろうか

そして次にはかなり間を置いて旧唐書が作られる。

この間には何回にもわたって遣唐使が派遣されているから、日本人から直接情報を得ることができた。

であるがゆえに多くの異説が生じ、それが書き留められている。中国側文献としては、その正確度において、我々がもっとも依拠しなければならない文献だろうと思う。

日本は倭国の別種である。その国は日の出る方向にあることをもって、日本という名とした。或いは曰く、倭国は悪字でありがその名雅ならずと、自ら日本と改めた。或いは云う、日本は旧小国で、のちに倭国の地を併合したと。

これだけはっきり書かれていれば、「或いは曰く」に過ぎないと無視する訳にはいかないと思う。言っているのは、日本を代表する遣唐使たちであった可能性が大きいからである。