刀伊(とい)の入寇

すみません。こんなこと、まったく知らなかった。
たしかに高校時代日本史は選択していなかったのだけど、それにしても、名前さえ聞いたことがなかったという不勉強には、ひたすら頭を下げるほかない。

とにかくまずは年表形式で事実をさらっておく。

1019年 刀伊という海賊集団が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した。

というのが中核的事実である。

出典はそのほとんどが『小右記』によるものである。これは藤原実資という朝廷幹部の日記である。この日記に刀伊の襲撃に一部始終が書き込まれているのだが、その情報は太宰府に在任し戦闘を指揮した藤原隆家という人物の作成した報告書の要旨である。

資料的には裏付けの取りにくい事件であるが、話としてはすなおで無理がなく、ありうる事件だろうと思う。
第一に、当時、高麗と遼(契丹)は戦争関係にあった。女真族は渤海湾沿いに居住し契丹と臣属関係にあった。反高麗の立場から陽動作戦を志向することはあり得た。
第二に、高麗は新羅の後継国であり、日本にとっては馴染みの国である。女真族との見分けは対馬や壱岐の住民にとっては容易なことである。
第三に、一国の軍隊の行動と海賊の行為の差は明白であり、刀伊の行動が野蛮人のそれであることも明白である。

年表ではこれよりもう少しさかのぼって、刀伊を生み出した朝鮮半島の政治情勢を探っていこうと思う。

「とうい」はもともと中国語の「東夷」であり、本体は満洲に住む女真族とされる。これが高麗語に取り込まれ、さらにこの「とい」に日本で文字をてたときに刀伊と表現されたという(Wikipedia)




10世紀 満州のツングース系民族、女真の名が文献に登場。多くの部族に分かれ、国家としては統一されなかった。
当初より遼(契丹)に従っており、中国化の度合いによって熟女真と生女真の2大集団に分かれる。926年 契丹が渤海に侵入し東丹国を立てる。このあと渤海の国域に女真族が進出。(定安国→後渤海国の話は省略)
契丹
           wikipedia より
936年 高麗が、新羅を倒して半島を統一。

993年 契丹が高麗に侵攻。高麗は宋とは断交し、契丹に朝貢することになる。和議の条件として鴨緑江以南の女真族居住地を高麗のものとすることが認められる。

994年 高麗が女真を排除し江東6州(現在の平安北道領域)を占領。(なぜここに女真族がいたかは不明)

1004年 契丹(遼)、北宋の朝貢を受けるようになる。中央アジアまで勢力を伸ばす。

1005年 女真による高麗沿岸部への海賊活動が始まる。

1009年 高麗の内紛。これに契丹が介入し、首都開京を占領。

1018年 契丹、江東6州の割譲を求め高麗侵入。高麗軍はこれを撃退する。

1018年 女真海賊、鬱陵島(于山国)を襲い滅亡に追い込む。海賊は高麗水軍に追われ南下したものとみられる。

1019年

この頃、新羅や高麗の海賊が頻繁に九州を襲っていた。

3月 刀伊、50余隻の船に乗り込んだ約3,000人で対馬海峡をわたる。
賊船の大きさは10~20メートル。一艘の船に漕手が30~40人。乗船員数は30~60人。

3月27日 刀伊が対馬に上陸。島の各地で殺人や放火を繰り返す。国司の対馬守遠晴は脱出し大宰府に逃れる。
対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人。銀の鉱山が焼き払われた。

4月 刀伊、壱岐を襲撃。国司の壱岐守藤原理忠の部隊と対決し撃滅。

山野を駆け巡り、牛馬家畜を食い荒らし、人家を焼き、穀物を奪った。捕らえた老人子供は殺し、壮年は船に追い込んだ。
殺害された者365名、拉致された者1,289名。残りとどまった住民が35名に過ぎなかったとされる。

4月7日 襲撃の報を受けた太宰府の権帥藤原隆家は、各所に防衛線を敷く。兵の実体としては九州武士団の連合軍であった。(隆家は反道長派の大物で、大宰府に身を引いていたと言われる)

4月8日 刀伊、九州本土の怡土郡、志麻郡、早良郡を襲う。(福岡市西部から糸島市にかけての地域)防衛隊の反撃にあい、いったん能古島に引き揚げる

4月9日 刀伊、早朝に上陸し筥崎宮の警固所を襲撃。隆家軍本隊の前に撃退される。

4月10日 強風と波浪により海賊の動きが止まる。この間に隆家軍は軍勢を強化。

4月11日 刀伊、三度上陸し博多を攻撃。隆家軍の前に生き残り二人を残し全滅。残存部隊は博多攻撃を断念し撤退。

4月13日 刀伊、肥前国松浦郡を襲う。前肥前介の源知(松浦党の祖)軍が捕虜一人を残し殲滅。

4月17日 朝廷に刀伊襲撃の報が届く。朝廷は厳戒態勢を発令する。

4月 刀伊、日本から撤退したあと、高麗沿岸各地を襲撃。最終的には高麗の水軍に撃滅される。刀伊に拉致された日本人約300人(うち対馬出身者が270名)が高麗に保護され日本に戻る。

6月29日 大宰府が勲功者リストを提出。朝廷は勲功を与える必要なしという判断を下す。

承平・天慶の乱への対応に追われていた朝廷は、魏駅進入の危険に対して何ら具体的な対応を行わなかった。藤原隆家らにも何ら恩賞を与えなかった

7月7日 対馬判官代長嶺諸近、高麗に密入国し情報収集。日本襲撃が刀伊によるものであることが判明。

9月 高麗虜人送使が保護した日本人270人を送り届ける。大宰府はその労をねぎらい、黄金300両を贈った。

1115年 阿骨打、女真の統一を進め金を建国。遼から自立する。やがて金は、遼と北宋を滅ぼし中国の北半分を支配するに至る。

1125年 金が宋と結び遼を挟撃。遼は滅亡し多くが金に取り込まれる。

1220年頃 日本海側沿岸部の女真族集団集落、モンゴル帝国軍によって陥落する。