北海道に穂別という町がある。正確に言えばあったということになる。平成の大合併で隣のむかわ町に合併された。

この町に恐竜博物館があって、これも正確に言うと恐竜ではなく水中に暮らした爬虫類らしいのだが、先日そこに見学に行ってきた。

小さな町には不似合いな立派な建物だが、見学者はほとんどいない。いずれ恐竜のように絶滅するのであろうか。

その博物館の受付で古老が語る穂別昔ばなしみたいな本があって、何気なく手にとってパラパラとめくったところ、これが意外と面白い。

つい買ってしまい、家で読み始めた。面白いと言ってもA5(全書版)で400ページの大著だ。途中で流石に飽きてきた。

一体何でこの本が面白いのか、いろいろ考えてみたが、結局これはガルシア・マルケスの「百年の孤独」なのだと思い至った。

1.アイヌ先住民

穂別の町は鵡川という川沿いに長く伸びている。明治に入るまでは川沿いにいくつかのアイヌ人集落があって、半農半漁、自給自足の生活を送っていた。とはいうものの、ほぼ無人の野と言ってよい。

なにせ理由は不明だが江戸中期からアイヌ人の人口はどんどん減って、明治に入ると全道でも数万というくらいだったから、アイヌの社会を征服して植民地化したと言うには程遠いものだった。

2.食い詰め者の群れ

町の歴史の最初はハグレモノの進入に始まる。ほとんどが食い詰め者かダマサれて来た人たちだ。明治40年ころの話だ。

最初は鵡川の下流の方から入ってきた。この人たちは押し出されていやいや入ってきた人たちだから、入り込みのスピードは遅かった。

ついで夕張から峠を越えて入ってきた。夕張がそもそも炭鉱で人が増えた流れ者の街である。山の向こうなら土地も豊かで食っていけるという風のうわさに乗ってしまうものがたくさんいた。夕張からの流れ、食い詰め者の流れが優勢となった。

この本のすごいのは、その人達(1900~1910年ころの生まれ)が健在(1990年現在)で、淡々とその苦労を語っていることだ。

その生き方は、突き放して言ってしまうと、人間と言うよりまるで虫けらのいのちだ。それが土地にしがみついて、黙々と働き続ける。しかしそういういのちは積み上がっていくのではなく、次々と入ってきては、そのほとんどが次々と消耗していくかのようだ。

何年かに1回は冷害がやってくる。その間に日照りがあり、洪水がある。焼畑農業は数年で地面が痩せてダメになる。住居・衛生環境は最悪で医療アクセスもほとんど期待できない。

災厄があり、病気があり、怪我があり、そのたびに人々は食い詰めて、街を出ていくか野垂れ死にしていくのだ。

それでも、しがみついて生きていく人もいる。子供の代には何かしら良くなるのではないかと思って頑張る。しかしその夢が叶うことはない。子供の代にも貧困はつきまとう。

ただ子供の代の人々は初代の獣のような生活に比べればよほど人間らしい。教育の力である。入植者がいかに学校教育を希望の糧としたか、その思いが切々と伝わってくる。そしてこの二代目たちが街の骨格を形成する。

3.町に凄まじい変革の嵐が襲う

鵡川の河口の方から鉄道線が伸びてきた。そうすると移出用の作物づくりが始まる。種子から灌漑設備、肥料・農薬と金もかかるようになる。当然町の中に金持ちが出現し、彼のもとで働く小作人も出現する。

こんな山の中に鉄道がどんどん入り込んできたのは、鉱物資源のためである。線路は国鉄ではなく炭鉱会社ものであった。

穂別の北部・西部は夕張から続く石炭の鉱脈であった。一方東部には日本国内で最大のクロームの鉱脈が連なっていた。石油の油田すらあった。

もちろん木材も伐採されたし、その後の二次林では木炭づくりも行われた。

これにより典型的な北海道の地方都市の体裁が、こじんまりと育ったのである。

4.沈滞から滅亡へ

この繁栄期は大正10年(1921)ころから、第二次大戦を挟んで昭和40年(1965年)ころまで続いた。

穂別は近辺一帯では豊かな街だった。町を鵡川とこれに並走する国鉄線が縦貫していた。穂別炭鉱、茂別炭鉱に新登川炭鉱、富内周辺のいくつかのクロム鉱はほかの街にはないものだった。石油は穂別炭鉱に近いところで採掘され、一時期は灯油として町内に供給されたこともある。
農業も稲里・長和の稲作は豊かな実りを与えた。夏の夜はホタルが乱舞した。豊田から仁和に至る鵡川沿いにも洪水さえなければ実りが期待できた。和泉の河岸段丘ではホワイトアスパラが全道ブランドとなっていった。

北海道はすべて昭和40年が境目である。すでに閉山の動きは始まっていた。農業構造改善と減反の嵐も始まっていた。北洋漁業の減船はもう少しあとのことになる。
すでに出稼ぎは長期化し、挙家離村の動きも始まっていた。

この頃から、私の穂別でのセツルメント活動が始まる。町には古い貧困と新しい貧困が重畳していた。

それまでの貧しさとは違い、先見えないひたすら沈殿していく貧しさがそこにはあった。

戦後生まれが三代目としてあとを継ぐはずであったが、彼らはすべて町を離れた。鉄道が廃止になり炭鉱やクローム鉱がすべて閉鎖され、林業が不採算となった今、そこに生きる縁はなかった。

2代目は跡継ぎを失ったまま齢を重ね、その土に帰る他になくなった。

今その作業がほぼ終了しつつある。