イタリア解放闘争(Combattimento della Resistenza Italiana)
言い方は定まってはいない。パルチザンだけでは意味が狭いので、使われない傾向にある。
ネットで使用できる資料は英語もふくめ限られている。
Flag_of_Italian_Committee_of_National_Liberation
  イタリア民族解放委員会の旗


42年に行動党、社会党、キリスト教民主党が相次いで結成された。(いずれも非合法。社会党は再建)
1943年
3月 北イタリア各地の工場でストライキ闘争に勝利。経済要求に基づくものだったが、共産党の影響力が強まる。

43年7月
7月24日 ファシスト党の評議会が開催される。党幹部グランディによる「統帥権と憲法上の大権の国王への返還」の動議が可決され、ムッソリーニが解任される。

7月25日 ムッソリーニは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に謁見し報告。その場で身柄を拘束され、ティレニア海の島に逮捕・監禁される。

7月25日 エマヌエーレ3世の指名を受け、パドリオ元帥が首相となる。バドリオは欧州大戦参戦に反対し、すべての職を辞していた。

7月26日 バドリオは就任演説で「戦争は依然続く」と述べる。

7月28日 エマヌエーレ3世、バドリオに対して休戦交渉の密勅を下す。国王の意向を受けたバドリオは、圧倒的に優勢な敵軍に対して対等な戦いをこれ以上続ける事は不可能と判断。

7月29日 ドイツはムッソリーニ支持の立場を明らかにする。ヒトラーはバドリオの寝返りを警戒し、オーストリア国境のブレンナー峠にドイツ軍を集結させローマ進駐の準備を進める。

7月31日 バドリオ政府、連合国側に特使を送り、秘密裏の休戦交渉を開始。

43年8月
8月17日 連合軍、シチリア島の解放を完了。島民は「イタリア万歳、国王万歳」を叫び街に繰り出したとされる。

8月17日 ドイツ軍はピサ・リミニの線を最終防衛線に設定。それより南はいざというときは放棄する戦略をとる。防衛線以北をロンメル将軍が統帥し、以南の作戦はケッセルリンクに委ねられる。

8月 連合軍、バドリオに終戦圧力を掛けるためトリノとミラノに激しい空爆。数千人の犠牲者を出し,多くの家屋を居住不能にする。労働者は戦争継続反対のストライキに立ち上がる。

8月 バドリオ政権、共産主義者や無政府主義者をふくむ政治犯を解放。

43年9月
9月3日 連合軍とバドリオ政権との間に秘密休戦協定が結ばれ、ローマはジュネーヴ条約上の「無防備地域」(Non-defended localitiesとされる。発表は適切な時期まで伏せられた。

9月8日 連合軍総司令官アイゼンハワー、「イタリア政府の休戦」と「イタリア国軍の無条件降伏」を公表。バドリオ政権が休戦協定の公表をためらい続けることにしびれを切らしたたためとされる。

9月8日午後7時 バドリオ首相、連合軍と休戦交渉中であることを認めるラジオ演説。

9月9日 連合軍、イタリア本土のサレルノへの上陸作戦を開始。アヴァランチ作戦と呼ばれる。ドイツ軍は6個師団を投入し反撃。

9月9日 ヒトラーは、ドイツ軍派遣司令官ケッセルリンクにイタリア占領を命じる。ドイツ軍はジュネーヴ条約を無視しローマ市内へ進撃。これに対しカドルナ将軍に率いられたイタリア軍が応戦する。

9月9日 バドリオ政権閣僚、国王一族らは密かにローマ脱出。南部のブリンディジまで逃亡。これに代わり、ローマ市民が2日間にわたり激しい抵抗。トスカナのピオンビノ港では港湾当局がドイツ軍艦の入港を拒否。

9月9日 逃亡したバトリオ政府に代わり、「イタリア国民解放委員会」(CLN)が設立される。6つの政党より構成され、ボノミが委員長に就任。

9月10日 ドイツ軍、ローマ制圧を完了。

9月10日 ドイツ軍はサレルノの連合軍上陸部隊を追い詰めるが、激しい砲撃と降下部隊の挟撃により停滞。

9月12日 ドイツ軍、バルレタ(Barletta)に侵入し市民多数を殺害。

9月13日 ドイツ軍、ムッソリーニ救出作戦を実施。ティレニア海からグラン・サッソへと身柄を移されていたムッソリーニの身柄確保に成功。東プロイセン州ラステンブルグの総統大本営に護送する。

9月15日 米戦艦2隻がサレルノ湾に入り、艦砲射撃を開始。またドイツ軍背後を戦略爆撃で壊滅させ、補給を断絶する。ドイツ軍はサレルノ奪還を断念して後退するが、連合軍も進軍できず。

9月18日 ムッソリーニ、イタリア国営放送を通じて声明。「イタリア社会共和国」(RSI) の建国を宣言。行政府をサロに置く。サロはミラノ東方90キロ、ガルダ湖畔の町。連合国は「サロ政権」と蔑称。
サロ共和国には3つの武装組織があった。第一に正規軍、第二に全国警備隊、第三にファシスト党直属の黒色旅団である。
9月27日 ナポリで市民蜂起。4日間にわたる市街戦の末、市民がドイツ軍を撤退させ連合軍を迎え入れる。
これを描いたのが「祖国はだれのものぞ」という映画。63年制作だ。すごく感激してみたのだが、その後まったく日本では上映されず、DVDにもなっていない。Youtubeでは英語の字幕付きで全編が鑑賞可能だ。(The Four Days of Naples/Le Quattro Giornate Di Napoli" (1962) w. English subtitles
43年10月
10月13日 バドリオは日独伊三国同盟を破棄しドイツに宣戦布告する。
軍の半数近くが枢軸側での継戦を訴えるムッソリーニに呼応してRSI軍に参加した。イタリアは南北に分断された形となり内戦状態に突入した
10月 反撃に出たドイツ軍がほぼ全土を制圧。北部ロンメル元帥が、南部はケッセルリンク元帥が指揮。米82空挺師団は作戦を中止しナポリの線まで撤退。

43年11月
11.14 ファシスト共和党、ヴェローナで党大会を開催。

11月 ミラノで「女性援護グループ」が結成される。パルチザン支援を主目的とする。伝令役は捕まれば処刑される危険があった。約3万5千人の女性がパルチザンに協力。2万人が愛国章を受けている。
Italien,_Rom,_erhängte_Frau
         ローマで首を吊られた女性パルチザン

1944年
44年1月
1月 ローマ南部アンツィオ港の解放作戦が始まる。モンテ・カッシーノの戦いが4ヶ月にわたり続く。
アンツィオ大作戦を書き始めると、延々と果てしなく続くので、ここでは省略。イタリア国民の抵抗運動に絞って掲載する。
1月8日 ヴェローナ裁判が開始される。

1月 連合軍支配区を拠点に「イタリア国民解放委員会」が発展。パルチザンやレジスタンスを結集しバドリオ政権と主導権を争う。
イタリア共産党はガリバルディ旅団を組織。ほかに社会党系のマテオッティ旅団、キリスト教民主党系の自治独立旅団などが存在した。
1月31日 ミラノにも北イタリア国民解放委員会が結成される。各地の反ファシスト政治家とパルティザンが結集。委員長にはカドルナが就任。行動党からパッリ、共産党からロンゴの二人が軍事委員として支える。

44年3月
3月 ソ連がバドリオ政権を承認。モスクワから戻ったトリアッチ書記長がバドリオ政権への参加の意志を表明する。トリアッチは反ファシズム統一戦線を提唱、政治的ゼネスト→全国民蜂起の路線を提起。

3月23日 ローマ中心部、ラセッラ通りでパルチザンの爆弾テロ。親衛隊33人が即死、70人以上が重傷を負う。ヒトラーは親衛隊員1人につき、イタリア人50人を処刑するよう指示(現地当局は10人に値切った)

3月24日 アルディアティーネ洞窟の虐殺。イタリア人政治囚335人が処刑される(5人は巻き込まれ犠牲者)。犠牲者のうち75人がユダヤ人。さらにローマの収容所内のユダヤ人1千人がドイツの収容所に送られた)

4月22日 「ローマ協定」が締結される。これを受け、国民解放委員会も加わった国民統一政府が樹立。

44年5月
5月 RSI政府の国防相グラツィアーニ、パルチザン数は北部トスカーナからエミリア地方を中心に7万~8万人に達すると語る。
ドイツ軍がパルチザン掃討にのり出した結果、農村はその犠牲となり、反独感情が高まった。国民解放地方委員会に所属しパルチザンの支持を受けるか、独自の武装組織を結成して抵抗を始めた。
5月 ローマの最後の防衛線カイザー線が連合軍により突破される。

44年6月

6月5日 ローマ、連合軍に解放される。
ロッセリーニの「無防備都市」(Roma Citta Aperta)はこの間の戦いを描いたもの、ローマ解放直後から撮影が開始され、1年後に完成・公開された。
6月9日 バドリオ政権がローマ入り。この後、バドリオら政府閣僚が総辞職。ボノーミ臨時政権が樹立される。エマヌエーレ3世も退陣しウンベルト王太子を摂政とする。
イヴァノエ・ボノーミは改良社会主義党総裁で、ムソリーニの前の首相をつとめた。43年7月に国民解放委員会議長に就任している。
6月18日 ボノーミは正式にイタリア王国首相に就任し、内務大臣や外務大臣をも兼任する。

6月19日 正規軍とは別に自由義勇軍が創設され、武装抵抗運動を束ねる。国軍反ファシスト派のラファエレ・カドルナ将軍が司令官となる。

6月 北部の武装パルチザンが「北イタリア国民解放委員会」(ミラノ)に統一され,旧軍人と活動家が合流する。諸政党の協力が進む。(行動党,プロレタリア統一社会党,共産党,キリスト教民主党,自由党,労働民主党の6政党)
北イタリア国民解放委員会は北イタリアの対ナチ・ファシストへの抵抗運動、パルティザン活動を一挙に拡大するため、同委員会内に「自由志願軍団」を創設、連合軍側も北イタリアの抵抗運動に物心両面の支援を行うことを確認した。
44年7月
7月 連合軍、ピサからフィレンツェにかけてのアルノ・ライン(ゴシックラインより南方30キロの防衛線)に到達。

ゴシック線 イタリア

7月 ボノミ政権内にファシズム粛清高等委員会が設立される。

44年8月
8月11日 フィレンツェが陥落。その後連合軍主力は南フランス上陸作戦にうつり、9月以降ゴシック線を境に戦線は膠着。
Florence,_14_August_1944
   8月14日 フローレンスにて(首に巻いたスカーフの色が自慢だった)
8月11日 カドルナ将軍、パルティザン活動を統括・指揮するため、イギリス軍情報将校とともに夜陰にまぎれて北イタリアに降下する。

8月 ミラノのロレート広場で政治犯15名が公開処刑。(後にこの広場にムソリーニの遺体が吊るされる)

8月 ボノミ首相、ミラノの北イタリア国民解放委員会に書簡。
戦争を早期に終結させるためにはドイツ軍を降伏させる以外にないと断言。北イタリア委員会を「ナチ・ファシスト占領下での国民的闘争のためのイタリア政府の北イタリア代表」と位置づけ、密接な協調をはかる。「ナチ占領下の抵抗運動における一切の政治的・軍事的権限」を付与する。
9月26日 米第88歩兵師団の3個中隊とパルチザン250人が、ドイツ第290連隊の守る基地を奇襲攻撃。攻略に成功。

44年9月
9月29日 アペニン山脈内のマルツァボット村でドイツ軍による住民虐殺事件が発生。1,836人が殺害される。(この数字は誇張されている可能性あり、最近の記載ではボローニャ近郊の人口7千人のかなり大きな村だ。犠牲者は771人で、内216人が子どもとされる)
中北部農村では集団虐殺が繰り返された。Sant'Anna di Stazzemaの虐殺では560人、マルツァボット虐殺で770人、サルソーラでは20人のゲリラ兵が拷問の後、報復として虐殺された。
9月 このころポー河の渓谷には、モンテ・フィオーリ、オッソラなど15余りのパルチザン共和国が誕生していた。最大のパルチザン集団はガリバルディ旅団(共産党系)で、都市では「愛国行動隊」の名でゲリラ戦を展開。(YoutubeのBella Ciao - Italian Partisans Songという動画が当時の雰囲気を伝えている)

ガリバルディ旅団
             ガリバルディ旅団
ドイツ軍が青年たちを捕まえてドイツへ送り強制労働に就かせていた。部隊は満足な武器もないのに、平野から来た志願者で膨れ上がっていた。
11月25日 ボノミ政権が総辞職。2週間後に第二次ボノミ政権が発足。

1945年
45年1月
1月 連合軍が攻撃を再開。ゴシック線を突破する。ドイツ軍はあらたに「ジンギス・カン線」「ポー線」「ヴェネツィア線」「アルビーノ線」という4重の防衛線を敷き直し抵抗を続ける。

45年4月
4月 ドイツC軍とムソリーニ軍はポー川ラインにまで戦線を後退。

4月19日 CLNが北部主要都市での総蜂起を呼びかける。 

4月19日 ボローニャで攻撃が開始される。
都市ゲリラ イタリア
都市ゲリラ
              ゲリラによる市街戦
4月21日 ボローニャ解放作戦が完了。連合軍司令部の指示の下にパルチザンとポーランド軍2軍団が加わる。1万7210名がパルチザンに参加し、そのうち2064人が殺される。

4月23日 トリノとミラノでゼネストが始まる。

4月24日  パルマとレッジョエミリアが解放される。

4月25日 ミラノなど北部の主要都市すべて解放されたため、解放記念日とされる。ムッソリーニはドイツへの逃亡を図る。
女性戦士
     女性ゲリラ戦士
4月27日 ジェノバのドイツ軍が降伏。14,000人以上が捕虜となる。

4月28日 ドイツに向け逃亡中のムッソリーニを捕え,処刑。ミラノなど北部の主要都市すべて解放されたため、解放記念日とされる。

パルチザン凱旋 イタリア
            山岳パルチザンの凱旋
20ヵ月の解放闘争で参加者は 25万人。そのうち戦死者は3万 5000人をこえる。虐殺された市民は1万5千人に達し、その多くが婦女子であった。
4月29日 ドイツ・イタリア方面軍司令官フィーティングホフが連合軍に休戦を申しいれ。最終降伏は5月2日。