日米開戦に至る経過を日大のアメフト騒動と重ね合わせながら考えている。
暴力が発生し容認されるには3つの段階が必要だと思う。
①まず最初は、民主主義の否定。異論の封殺による批判の自由の喪失である。
②ついで、権力構造が変質する。リテラシーが低下し人脈支配がはびこる。
③そして最後に、歯止めを失った権力者が暴走し、暴力へと国民を導く。

①異論の封殺による批判の自由の喪失
おそらく1933年が画期となろう。多喜二の虐殺に始まり宮本顕治ら共産党の幹部がほぼ一網打尽になった。その後もリベラル派の人々による抵抗は続くが、罰せられないテロにより容赦なく潰された。
②軍(統制派)の唯我独尊化
多少なりとも自由な発言は36年の2・26事件で不可能となった。軍の統制派が戒厳令のもとに参謀本部独裁体制を敷いた。永田戦略は中国進出であったから、戦線は停止するどころか一層拡大した。天皇の名のもとに権力を握ったゆえに、皇道派を上回る「皇道派」となった。
③軍の狂気化と常識派の壊滅
39年9月の欧州大戦勃発、三国同盟などありつつも常識派(民主派でもなければリベラル派でもない)が2年にわたり対米非戦の線を死守した。しかしその間に軍部の「狂気化」はますます進行し、誰にも手がつけられなくなった。そして8月の南部仏印進駐とアメリカの石油禁輸が引き金となり、9月御前会議での「国家の狂気化」に結びついた。狂気化過程での海軍の跳ね上がりは火に油を注いだが、火元ではない。
④常識派の最後の抵抗
10月、東條新政権での9月決定の見直しは、常識派の最後の抵抗(天皇の意向を背にした可能性がある)であったが完璧にスルーされた。ハル・ノートはその結果であり原因ではない。最後の可能性があったとすれば東條による粛軍であったろうが、東條自身の思想からは到底考えられない。
⑤日米戦争回避の3条件
中国人民からは到底認められるものではないにせよ、蒋介石政権は満州国を容認した。欧米列強も黙認の方向へ動いていた。ノモンハン後のソ連との関係が残ったが、満州は戦争の火種とはならなかったであろう。
しかし上海事変から南京政府に至る過程は、列強にとって看過しがたいものであった。したがって中支からの日本軍の撤退、重慶政府の承認は日本にとって避けがたいものであった。
南部仏印進駐に至ってはまさに狂気の沙汰である。援蒋ルートの遮断という理屈はもはやない。ここにいたり、日本の戦略は一変し暴走を始めた。
海を超えインドネシアに進出しその石油を確保するのが狙いということは猿でもわかる。その際打倒すべき敵はオランダということになる。これは南シナ海を挟んだフィリピンを領土とするアメリカにとって決して対岸の火事ではない。
したがって緊急度順に並べて
①南部仏印撤退(これはほぼ無条件)
②中国本土(満州を除く)からの撤退(少なくとも撤退の意思と時刻表の提示)
③重慶政府との交渉開始(南京政府との“統合”をふくめ)
はどうしても決断しなければならないのである。