日米開戦と軍部

右翼系の人が日米開戦論を書くと、かならずこの3点が引っかかる。
開戦に至るプロセスを詳細に見ても、人の顔が見えてこない。いつ、誰が、どういう理由で、何を目的として開戦を決めたのかは、いまだに不明のままだ。
第一は戦争に突入した理由をあれこれ並べ立てるが、それらの理由によってメリカとの戦争を始めた理由を合理化できるのか、ここが最後までウヤムヤなのだ。
それらは戦争に至った言い訳にしか聞こえず、戦争をやってはならない理由にしか聞こえない。
もう一つは、誰それは実は戦争回避派であったというのが延々と続くが、それじゃ開戦を推進したのは誰かと言うと、これもまた最後までウヤムヤなのだ。
三番目には東京裁判が間違いだというのはルル述べられるが、東京裁判が間違いだとして、それでは日本を悲惨な戦争に追いやった責任は誰がとるべきなのか、この点についてもさっぱりわからない。
やはり自分なりに事実を点検していかないとだめだなと思っている。
それにはあまり長いスパンは必要なく、昭和16年の初頭からで十分ではないかと思う。
それと、陸軍の動きを中心に据えない議論は参考にすべきではない。戦争に突っ込んでいく先頭に立ったのが陸軍であるのは間違いないからだ。
どうも余分なトリビアル情報が多すぎる。しかも「こちらが正しければあちらが間違い」と言うような情報が飛び交っている。それなのに軍の大本営や参謀本部、陸軍省で何がどう決まっていったのかはさっぱりわからない。思ったより手強い仕事になりそうだ。


昭和16年における日本経済
1940年の実質GDPは、日本が2017億ドルで、米国は9308億ドル。特に軍事力に直結する粗鋼生産量は日本の685万トンに対し、米国は約9倍の6076万トン
石油 日米比

主要輸出品は生糸だったが、96%が米国向けだった。代わりに輸入した米国産綿花を織物などに仕立て、英領インドやオーストラリアなどに輸出。その利益を重工業化に必要な機械類、鉄鋼などの購入に充てていた。

2月11日  野村吉三郎元外相が駐米大使として着任。近衛首相は野村大使を中心に日米交渉に動く。
日本案は
①三国同盟にもとづく参戦はドイツが米国に攻撃された場合のみ
②中国が満州国を承認すれば日本軍は撤退
③米国の仲介による日中和平の実現
アメリカ側は『内政不干渉・領土主権尊重・市場経済の機会均等・現状維持』のハル四原則を示したと言う
4月12日 松岡外相とスターリンとの会談が実現。日ソ不可侵条約の締結。
二正面作戦を避けたいソ連と、南進のために二正面作戦を避けたい日本との奇妙な妥協といわれる。
4月16日 日米諒解案が作られる。この前提でアメリカが日華関係の斡旋に乗り出すとされる。
1.日華協定による日本軍の中国撤退、2.中国の満州国承認、3.蒋政権と汪政権合体を骨子とする。アメリカ国内の論調は諒解案よりはるかに厳しいものだった。
4月 松岡外相、三国同盟の堅持を表明。日米諒解案を批判。(批判の論調は正しいものだった)
5月 「国防保安法」が施行される。政府の発表以外は報道することができなくなる。
5月 ABCD包囲網が完成。
まず英米豪の間に太平洋共同防衛諒解が成立(AB網)。ついでこの協定に蘭印(D)が加わり、英米は、豪州と中国に飛行機を譲渡する。
5月 海軍、「米英の全面(石油)禁輸を受けた場合、半年以内に南方武力行使を行わなければ燃料の関係上戦争遂行ができなくなる」と主張。

6月 ドイツがソ連領内に侵攻。天皇は三国同盟を廃棄し日米交渉に重点を移すよう指示。木戸幸一内大臣はこれを無視したと言う。

6月 駐米大使館付武官補佐官の岩畔豪雄(現役大佐)が帰国、各界に警告活動を展開する。
日米の物的戦力は、以下の比率で明らかです。
鋼鉄は1対20、石炭は1対10、石油1対500、電力は1対6、アルミ1対6、工業労働力1対5、飛行機生産力1対5、自動車生産力1対450であります。もし日米が戦えば大和魂をふるっても勝てる見込みはありません。

7月2日 御前会議。「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を承認。援蒋ルート遮断、自存自衛のための南方進出、結果としての英米戦の覚悟、独ソ戦不介入と対ソ武力発動準備が決定される。

7月28日 南部仏印への無血進駐を実施。米領フィリピンが航空機の射程に入る。米英の対日感情は一挙に悪化。

8月1日 アメリカ、日本の在米資産を凍結し、対日石油輸出を全面禁止。イギリスとオランダも同調。
日本軍は米国が南部仏印支柱を黙認するだろうと観測していたという。
ただし40年7月の軍令部研究報告では、仏印を占領すれば米国が石油禁輸で応じ、日本が蘭印の油田を制圧しようとすれば日米は戦争に突入すると予測していた。(角田順)
8月 首相直属の「総力戦研究所」が、「国力的に開戦は不可能、開戦すれば日本は必敗」との結論に達する。「総力戦研究所」の報告について、東條陸相は「実際の戦争では…意外裡なことが勝利につながっていく」と反論。

8月 陸軍省の戦争経済研究班が日米決戦に関して研究報告(林千勝による)。
1)極東の米英蘭根拠地を攻撃。 2)援蒋ルートを攻撃、支配し、蒋政権を屈服させる。 3)まず英国の屈服を図る。の三段階戦略を打ち出す。
米国とは極力戦わず、戦闘となれば日本近海にひきつけて行う(だからハワイ攻撃などはしない)

9月6日 御前会議。海軍側から提示された「帝国国策遂行方針」をたたき台とした議論となり、「要求貫徹の目途なき場合は直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と両論併記。天皇は外交優先主義を支持する。
天皇「どのくらいで作戦を完遂するのか?」
杉山「太平洋方面は3ヶ月の見込みでございます」
天皇「支那事変のとき2ヶ月程度で片付くと申したのに、まだ終わっていないではないか」
杉山「支那は奥地が広うございまして…」
天皇「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか」(近衛日記)
10月2日 アメリカ国務省、近衛首相の提案した日米首脳会談を拒否。
10月13日 野村大使が情勢報告。「アメリカは4原則で突っ張るだろう。交渉の一般的見通しは悲観的だ」
10月14日 陸軍の武藤軍務局長、「海軍が本当に戦争を欲しないのなら陸軍も考える」とし、海軍に下駄を預ける。
10月14日 近衛・東条会談。東条陸相は「9月6日の御前会議を御破算にするなら、陸海軍を抑えるために皇室が首班を担うべき」と主張。東久邇宮内閣論を唱える。
10月16日 近衛内閣は総辞職。近衛は対中撤兵による交渉を図ったが、陸軍大臣東條は一切の撤兵オプションを拒否。国策要綱に基づく開戦を主張。
10月16日 木戸内大臣が東条陸相と会談。木戸は「海軍が自重の方針で一致しなければ皇室は出ない。和平で一致するなら皇室は出る必要がない」と主張。(要は逃げたということ)
10月17日 後継首班推薦のための重臣会議。木戸は「海軍は戦争に乗り気でないため9月6日の御前会議決定は白紙還元」と述べる。そして開戦を主張して来た東条陸相に首相をやらせることで情勢を切り開くという奇策を打ち出す。
10月18日 大命降下。木戸の推挙を受け、後継の東條内閣が成立。外相には交渉派の東郷茂徳を起用。
東郷には「内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重なる考究を加うる」ように、陸海両相に対しては「9月6日の御前会議の決定を情勢に合わせ再検討せよ」との天皇の意思が伝えられる。
10月18日 東條が首相に就任。承詔必謹の精神で即時開戦決意を翻し9月6日御前会議の決定を覆す。
陸軍省・参謀本部の主戦論を抑えるために陸相を兼務し、さらに右翼クーデターに備えて、内相も兼務する。外相には反枢軸派の東郷茂徳をあてる。

10月22日 軍省局長会議で武藤軍務局長が発言。北支・蒙彊の駐兵維持は絶対に譲れないとする。また海軍軍令部の永野総長は「9月御前会議決定を変更する余地はない」と語る。
10月23日 各省統帥部に11項目の検討項目を示し、国策再検討を指示。これを受けて大本営政府連絡会議が1週間連続でひらかれる。(詳細は東條内閣「国策再検討会議」の顛末で)
初日の会議では次のような発言があった。永野修身は「海軍は1時間当たり400トンの油を無為に消費している。検討会議は簡単明瞭に」杉山元は「研究ばかりして費やせない。今すぐ前進しなければならない」
塚田参謀次長が嶋田海相を「黙れ」と叱りつける場面もあった(杉山元のメモ)
11月5日 御前会議。英米蘭戦を決意する。外交は12月1日零時までとし、武力発動の時期を12月初頭と定める「帝国国策遂行要領」が決定される。
11月5日 東郷、野村らによる最後の外交努力が始まる。東条首相、杉山総長、塚田参謀次長、武藤軍務局長は、「支那を条件に加える”案は検討に値せず」と拒否。
11月6日 南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令される。
11月13日 野村大使の現状報告。
戦争に対する準備は着々と進め居れり。原則を譲り妥協する位ならば寧ろ戦争を辞せざる覚悟である。
対独戦には若干の異論あるが、太平洋戦には反対少なきゆえ、この方面より参戦することも充分あり得べし。
11月15日 大本営政府連絡会議、「対英米蘭蒋戦争 終末促進に関する腹案」を決定する。イギリスを経済封鎖等により屈伏させ、イギリスにアメリカを誘導させて講和に持ち込むとする。
11月17日 東郷外相が国会演説。「太平洋の平和を維持せんがために日米会談を継続するに決定、交渉の成立に向けて最善の努力」と述べる。
東郷は以下の腹案を持っていたとされる。 ①中国駐兵5年以内に全部撤兵する ②通商自由の原則を中国にも適用する ③南部仏印から撤兵する
11月20日 大本営政府連絡会議は、作戦対象となる南方諸国について「南方占領地行政実施要領」を決定。重要国防資源の急速獲得のため軍政を敷くこととなる。
11月20日 東郷外相、仏印撤退と石油供給再開を交換条件とする「最終案」を送付。野村、来栖の両大使がアメリカ国防省にて手交。
11月22日 ハルが乙案に対する暫定協定案を提示。英国、中国、豪州、オランダの各国大使と協議。
「南方進出の停止を約束すれば、経済制裁を緩め、日中戦争の解決には干渉しない」とする。有効期間は3ヶ月とする。これは日本の戦争突入必死と見たアメリカが時間稼ぎのためにダミー提案したとみられる。
11月24日 ハル提案に蒋介石政府が猛反発。取り消しを求める。
11月26日 海軍、真珠湾攻撃部隊に出動命令。
11月26日、1万トン級の10~13隻の日本輸送船団が台湾南方を通過中、米軍機により目撃される。
11月26日 ハル国務長官、4原則に従った「ハル・ノート」を通知。4月16日の日米諒解案にさかのぼって否認したもの。
①多角的不可侵条約の提案 ②仏印の領土主権尊重 ③日本の中国及び仏印からの全面撤兵 の代わりに
④通商条約再締結のための交渉の開始 ⑤日本の資産凍結を解除 ⑥為替レート安定に関する協定締結
⑦太平洋地域における平和維持を提供するというもの。
後に極東裁判時にバール判事は“モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えるほどのもの”と表現するが、それほどではない。
11月26日 日本側はハル・ノートを「最後通牒」として受け取る。ただしハル・ノートには「極秘、暫定かつ拘束力が無い」と記されていた。
参謀本部は、満州放棄を認めれば「日本の対ソ、対米国防体制も根本的に崩壊する」と反発。ただし中国からの撤退に「満州」がふくまれるかについては不明。
11月26日 マーシャル参謀総長は、サンフランシスコ、マニラ、ハワイ、カリブ海の各司令部に日本の奇襲攻撃を警告。
もし敵対行動を避けることが出来なければ米国は日本が最初の明白な行動に出ることを希望している。
敵対行動が発生した場合はレインボー第五修正計画に基き任務を遂行されたい。
11月27日 ハル・ノートの提示を知った東条首相は、もしこれを受け入れれば一時小康を得るかも知れないが、それは重症患者に対するモルヒネの小康でしかないと語る。
11.30 海軍内ではまだ和平派が高松宮を通じて工作していたが、嶋田海相と永野軍令部総長はすでに開戦準備を開始していた。
12月1日 御前会議、12月8日の開戦を最終決定する。