この論文は戦時下の日本軍の捕虜対応を総括的に扱ったものであるが、この中に日支事変のさいの捕虜対応についても触れられていて、これが南京事件を招く要因の一つではないかと思えた。
とりあえず関連箇所のみ紹介しておく。

1 「俘虜」観のゆれ
日本軍の捕虜取扱方針は当初より矛盾したものであった。その最大の理由は日本軍に捕虜という概念は存在していないということである。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、敗残の将兵に自死を迫るものであった。
それにもかかわらず諸外国と国際的戦争を行うようになると、近代戦のルールを守るように迫られる。それは本来、日本軍内部にも捕虜という選択肢を導入すべきものとなるはずであったが、その方向には動かなかった。

2.捕虜の取り扱いをめぐる国際法
捕虜の取扱いに関する国際条約には陸戦条約(ハーグ条約)と俘虜待遇条約(ジュネーブ条約)という2つのものがあった。
陸戦条約は捕虜の取り扱いのみならず、戦争のルールを包括的・概略的に述べたものである。ジュネーブ条約は捕虜の取扱についてより詳細な内容をもち、前者を補完するものと位置づけられる。
後者は
日本は両条約に署名したが、俘虜待遇条約の批准は軍部の反対によって見送られた

3.俘虜待遇条約は批准されなかった
ハーグ陸戦条約は国内において批准されたが、俘虜待遇条約は調印はされたが、批准はされなかった。これは軍部からの強い反対によるものであった。
批准反対の理由は次の4つである。
①日本軍では、捕虜にならないよう教育しているため、日本人捕虜は発生しない。だから日本だけが捕虜を待遇する負担を負うことになる。
②敵国の航空機は帰還を考えずに日本を空襲できるから、攻撃距離が2倍になる。
③捕虜が立会人なしに外部の者と面談すれば、何でも話せ、軍事情報が漏れる恐れもある。
④俘虜待遇条約よりも日本軍の懲罰規定のほうが厳格なので、日本軍の罰則を軽減しなければならず、軍紀が緩む恐れがある。

4.俘虜待遇条約(ジュネーブ条約)はどう扱われたか
1942年 1 月 29 日米国、太平洋戦争が始まって間もなく、英国など交戦相手国から、ジュネーブ条約の扱いについて問い合わせがあった。
日本政府はこれについて「批准しないが準用する」という方針をうちだした。そして俘虜待遇条約を「準用」(apply mutatis mutandis)すると回答した。また赤十字条約についても「嚴重ニ遵守」すると回答している。
交戦相手国はこの「準用」回答を、事実上の適用と解した。しかし日本の受け止めは相当異なっていた。
(この後論文は、とくにフィリピンにおける大量の米軍捕虜の発生を機に、日本軍の捕虜取り扱いがジュネーブ条約から乖離していく経過の分析に入っていくが、ここでは省略する)

5.「準用」の例外としての支那事変
支那事変においては、ジュネーブ条約は「準用」どころか完全に無視されている。なぜなら日本は支那事変は国際法に言う戦争ではないと考えていたからである。したがって、陸戦条約は適応されず、国際法を無視した対応が行われた。
この方針は中国軍将兵に対する酷薄な対応をもたらした。
東京裁判時の武藤章(当時、参謀本部第1部第3課長)の証言によれば、陸軍では「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ、俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」された。
つまり、陸軍は「戦争ではないのだから陸戦条約には従わず、捕虜そのものを捕らない」という方針を採用した。したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった。

6.南京事件をもたらした「捕虜非適用」
南京事件では、内輪に見積もっても数万の中国人が殺されている。その多くが民間人に紛れ込んだ中華民国軍の敗残兵、ないしそれと誤認された中国人市民である。
これが一番問題になるのは、敗残兵が投降して捕虜となる道はなかったのかということであろう。国際的に見てこれは明らかに日中両国間の戦争であり、そこには捕虜取り扱いをふくめた戦時ルールが適用、せめて準用されるべきである。
武藤章の言う「捕虜非適用」が「皆殺し」方針なのか、「宣誓解放」方針なのかは判然としないが、「戦陣訓」の敵将兵への適用と見るなら結論は明らかだ。日清戦争時に旅順市内でも、索敵を理由として同様の大量虐殺が発生しており、日本軍の傾向からは偶発的事件とは言えない。
中国各地での戦闘の中で、実際には中国人捕虜はいたし、収容施設も存在した。また現地軍が一定の取扱い規則を定めている事実もある。
しかしこのプリンシプルは動かないのである。ゆえに南京虐殺は「捕虜非適用」の論理の必然的帰結だと見ることができる。