謝罪をしない保守主義
体育会系思想の特徴

暴行学生の記者会見を見て思った。
第一に、「体育会系思想」というのは切り離されたものではなく、右翼思想と密接に結びついていることである。
一つ一つのマナーやエチケットだけでなく、コンプライアンスの捉え方、全人教育への無関心などすべてが保守・右翼の思想に根ざしている。
しかも世界で唯一つ、戦争と弾圧政治の責任を負わずに逃げ通した保守主義、すなわち「日本型保守主義」の酷薄かつ卑劣な伝統を守り抜く特殊な思想である。
相撲協会のときにも強調したが、このひとかたまりの体育会系思想というものに、面と向かって向き合う時が来たのではないか。

体育会系思想の外形的特徴
体育会系思想の最大の外形的特徴は、謝罪をしないことにある。それを可能にしてきたものは、異議申し立て権の否定、外界とを隔てる情報隔壁の構築と強制である。
この特徴の因って来る理由は、日本型保守主義の歴史的特徴にある。
①日本の旧支配層によって形作られた日本型保守主義は、明治維新後の70年、常に日本を戦争と侵略の道へと駆り立てた。
②この70年間を通じて、生命や人権や民衆の暮らしを軽視する思想が日本型保守主義の中核に据えられた。
③戦後のGHQの占領・支配により、この日本型保守主義は政治の表舞台からは排除された。しかしそれをになった人々は罪を問われず罰せられず、生き残った。
④彼らが謝罪もなく、のうのうと生き残り、バブルの時期に戦無派と結びついて勢いを増してきたのを私たちは見てきた。
④今、各界の先頭に立ち始めた戦無派保守主義が日本型保守主義から引き継いだのは、「謝罪をしない」という作風である。「謝罪をしない」ことこそが保守主義の真髄でもあるかのように考えている。

体育会系思想と向き合う今日的意味
いま、体育会系の世界は、日本の社会諸組織にの中で最も遅れた、最も緊急に改革が求められる分野となっている。
体育会系思想と向き合うということは、たんにその思想を批判することではない。なぜなら、彼らの多くは謝罪することを恥と考えており、批判を受け入れるトレランスを持っていないからである。
必要なのは、戦後改革の初めに行ったように、体育会系思想の人的・組織的基盤を剔除することである。
すべての体育会系組織を憲法的枠組み、適法性、基本的人権の基準で再点検し、ガバナンスの改善を求め、応じなければ社会的団体としての承認を取り消し、非社会的団体に指定することである。(フットボール協会にも率直な自己点検がもとめられると思う)
さらに組織幹部の点検を行い、体育・スポーツの精神にふさわしくない人物には反省を求め、従わないものは更迭されなければならない。
スポーツの世界への行政介入は決して好ましいものではない。しかし肉体的接触や危険を伴うような競技団体などでは、最低限の基準を作って適正性を第三者的に評価する作業が行われなければならない。
これはかつての医療においても存在しており、情報公開の流れは自分自身が身をもって体験してきた。その中で二つの核心的事項が確認されている。それが異議申し立て権の無条件の尊重であり、徹底した情報公開の原則である。これがないと、医療への参加とか経営参加などは絵に描いた餅であり、恥部を隠すいちじくの葉でしかない。

日本から最終的に「真空地帯」をなくすこと
我々は子供時代に映画「真空地帯」を見て育った。軍隊とは「むり偏にげんこつ」であり、市井の人々が暴力と脅迫により非人間化していく場所であった。
学生になってからは、「人間の条件」や「軍旗はためくもとに」や「海と毒薬」などで、より徹底して反軍思想を叩き込まれた。我々の反戦・平和思想というのは何よりも反軍思想だったのである。
そしてこの帝国軍隊の思想の残滓が体育会系思想なのである。
これは積み残された戦後改革の一環であり、鬼軍曹と腐敗上官を摘発し、日本型保守主義を廃絶する行いとなるであろう。