小泉保「縄文語の発見」(1998年 青土社)という本があって、私は見ていないのだが、その紹介がいくつかある。

「縄文人の言語が発展して日本語が成立した」と言うのがそもそもの趣旨であるとすれば、納得しにくい議論ではある。
ただ実際に小泉さんがそう言っているのかは不明だ。

DNA検証の示すところによれば、朝鮮半島から弥生人が進出し、彼らは稲作とともに弥生語を持ち込んだ。縄文人は弥生人を受け入れ、弥生語を自らの言葉とした。
この大筋は基本的には受け入れられているように見える。

アクセント論を前面に立てるのは妥当

いろいろ問題の多い著作ではあるが、アクセント論を言語比較の基盤に置くのは説得力がある。
前項の「言語島」でも触れたが、先住言語の中でアクセントがいちばん最後まで残る特徴と考えられるからである。

ウィキペディアによれば、小泉さんは

一型アクセントこそが縄文語に由来する古いアクセントであり、京阪式アクセントが弥生語に相当すると考える。
そして東京式アクセントは一型アクセントと弥生語のアクセントの接触により形成されたと考える。

弥生語の受容過程という視点では、僭越ながら、前項での私の推理と大筋一致している。(だから正しいとは限らないが)

ただし私の考えでは弥生語を持ち込んだ渡来人と、上方方言を強いた渡来人は時期が違うので、別に考えるべきではないかと思う。

「弥生語の発見」を考える
簡単に私の考えを書いておく。
1.2万年前に日本にD2人が渡来した。日本での人口分布から考えて、おそらく北方からの進出であろう。
2.彼らはそのまま土着し琉球・先島諸島まで展開した。彼らは最後まで旧石器時代人であったが、同時に縄文人でもあった。
3.縄文人が話していたのはアイヌ語であろう。アイヌ以外の縄文人は縄文語を放棄し、弥生語に同化しているている。
4.紀元前2千年ころに朝鮮半島からC1人が渡来した。「縄文晩期人」というのはC1人を指していると思われる。彼らは日本人の約1割を占めている。彼らは長崎から秋田までの海岸沿いに分布し、一部は瀬戸内海に入り徳島まで進出している。基本的には海洋の民であり、朝鮮海峡を挟んで両側に展開した。
まったく根拠はないのだが、流れから見て彼らの母語はツングース系の古朝鮮語であろう。D2人の語る縄文語とはほとんど無縁だったのではないか。
5.紀元前2千年~1千年ころの西日本は人口希薄で、採取すべき果実の少ない常緑樹地帯であったと思われる。
C1人は初期から陸稲など穀物栽培を試みている。それらは朝鮮半島からの輸入であったろう。
6.紀元前500年ころから、O1b人が朝鮮海峡をわたり北九州に登場する。その源流は長江流域にあり、紀元前8千年ころから水田耕作を基盤とする長江文明を形成した人々である。私は長江人と呼んでいる。
7.彼らは北九州でC1人と共存しながら初期弥生文化を形成した。紀元前200年、漢の楽浪郡支配に関連して朝鮮半島南部に激変が起こり、大量の長江人が日本へ流入した。(この紀元前200年の人口爆発は未確認です)
8.O1b人はC1人を席巻し、たちまちのうちに近畿から東海、北陸へと広がった。D2人の生活域は基本的にはO1b人と競合しなかったので共存が維持された。D2人は沖縄をふくめて弥生語化した。青銅器文化が始まり、銅鐸が集団の象徴となった。これが日本語の第一次受容である。
9.小泉さんが「縄文語」と呼んでいるのは、おそらくこの第1次弥生語であろうと思う。「一型アクセント」を基調とするこの弥生語は、長江語をベースとし、古朝鮮語(ツングース系)を加えているであろう。
10.紀元前後に、最後の渡来人であるO2人が進出してくる。高天原神話によって立つ南満由来の民族だ。高天原は小白山脈のあたりと想像される。金印の倭那国王やその後の難升米が征服者だったのかどうかは分からない。とにかく彼らが紀元150年ころには西日本を支配するようになる。
このO2人が弥生語を持ち込んだ可能性はある。しかし漢人、南満人の系統であるO2人が元々の地で語っていた言葉と、日本語のあいだには著しい違いがある。
11.経過はよくわからないのだが、6世紀の後半には大和政権が確立する。彼らの言葉がやがて上方言葉として全国に広がっていくことになる。そのさい周辺部がこれを受容していく過程にはいろいろなものがあって、これが多彩な方言を生み出していったのだろう。