昔話だ。
私は96年と97年の2年間、小樽の診療所の所長を勤めた。有床診療所の一人所長だ。
着任したときはひどい赤字だった。とにかく入院患者を確保しなければ赤字は解消できない。そのためには外来数を増やすしかない。しかしそんなことが簡単にできるわけはない。当面は往診数を増やすしかない。高齢化社会だから、そして小樽は坂の町だから、往診数を増やすのは、外来数の減少に対応するためにも必要だった。
そうやって往診数を増やすと、外来数も増えたし、入院数も増えた。多分厚労省の在宅重視の政策にも適合しただろうと思う。本当の患者のニーズに適合していたかどうかは別だが…
往診増加は戦略的に取り組んだ。週1回の往診には外来部門の全職員が参加した。月4回の往診はそれぞれ東部(築港・朝里)、市街中心部、北部(手宮・赤岩・高島・忍路)、西部(長橋・オタモイ・塩谷)に分けて行った。5週目は遊んでいたのかな? どっちにしても5時からは夜間診療が始まるので、楽をしていたわけではない。
1.東部コース
この往診の密かな楽しみが、喫茶店での道草であった。3時間で10軒回るのだがその間に10分ほどのティータイムが入る。2年間の間に月1回づつ行くから、結局それぞれのコースで24回行ったことになる。
その立ち回り先は4エリアごとに決まっていた。決まってはいたが、しばしば新たに開拓された。
東部周回コースは、入れ替わりが激しかった。最初に行ったのは国道から奥沢に行く道路で、光満ゴムの工場の一寸先の三叉路にあった喫茶店であった。そこは2、3回行ってすぐに潰れた。その後は、潮陵高校の坂を登っていって朝里に抜ける途中の崖にあった喫茶店で、ここは港の夜景を眺めるアベック向けの喫茶店で値段も普通の倍はした。ここは可愛い看護婦さんが着いて来たときだけ行った。
朝里に往診に行ったときは思い切り山越えで奥沢に出た。途中に(といっても無理やり途中なのだが)終わるワインの工場があって、無料で試飲ができるのだ。けっこうこの無料は高くて、係の人に顔を覚えられて高級なものを出してくる。当たり前だ。ナースは白衣で行くのだから。だから、結局いい値段のものを買わざるを得ない。
この工場は峠の途中で、冬場はゾッとしない。ところが良くしたもので、奥沢の十字街より札幌方向、川沿いに酒造りの工場がある。「男山」というが旭川の男山とは違う。その工場に、その頃お誂え向きに試飲コーナーができてしまった。結局ここでいっぱい引っ掛けてご帰還ということになる。
2.中部コース
中部コースは実は意外に往診先が少ない。まちなかに住む人はあまり勤医協や共産党とは縁がないのと、わざわざ勤医協でなくてもけっこう医療機関はあるからだ。
したがって往診先は山側に偏ることになる。したがって喫茶店も山際の眺めの良い喫茶店が増える。
小樽商大に向かういわゆる地獄坂、その途中の喫茶店、小樽駅ウラの市役所から西に入った喫茶店、は何軒か行った。
一番見晴らしの良い喫茶店は、駅前からきた国道が長橋方面に左折するところを曲がらずまっすぐ山を登ったところにある。下るのはエンジンブレーキだが、フットブレーキを使わないとタコメーターは5千回転まで上がる。私のおすすめの喫茶店だったが、私が小樽を去って間もなく閉じた。
この峠から、さらに山に登っていく道がある。50メートルほどで行き止まるのだが、その前に住んでいるおばあさんのところに往診しなくてはならない。ここは冬場は車は登れない。徒歩で行くしかないのだ。
3.北部コース
第3週の北方面は比較的喫茶店が多いところであった。一番クオリティが高いのは赤岩の坂を登っていく途中、かなり奥の方に菓子屋さんの直営の喫茶店がある。ここは自家焙煎をしていて、それは良いのだが、あの頃のはやりで真っ黒に焦がしていた。コーヒーの苦いのと豆が焦げて苦いのとは違うのだが、分かってない。分かってないのはいいのだが、その勘違いを客に押し付ける。とは言うものの店全体の雰囲気は標準以上だから一応受け入れる。パウンドケーキもうまい。ただし高いから毎度という訳にはいかない。
ここから高島の港まで一気に下がるとき、途中に思わず見とれてしまう高島診療所がある。20年前のあの頃でほとんど世界遺産状態だったが、今はどうなっているだろうか。
そして港につくとそこに2階建てのレストランがあって、1階が地ビールの工場だった。このビール、相当ひどかった。もう今ではやってないだろうと思うが、
ここの2階で日の傾いた高島港から色内の埠頭を見通すのもなかなかの雰囲気だった。北部にはもう一つの穴場がある。ほとんど幽霊ホテル化した祝津のホテルだ。ほぼ宿泊客ゼロのホテルの最上階が回転式のレストランになっていて、ギイコギイコと動いてはときにガタガタときしむ。コーヒーを飲みながら密かにいつご臨終になるのかと指折り数えていたことを思い出す。

4西部コース
これまで色々書いてきたが、西部はほとんど喫茶店の記憶がない。多分なかったのだろう。虎吉沢を下り喜ったあたりに1軒くらいあったのだろうか。私の覚えているのは5号線を下りきったところで塩谷の市街に入り、そこを抜けて海岸に出たところにビーチハウス状の喫茶店があったことである。夏の海水浴のシーズンこそ若者が来ることはあっても、ここで通年営業というのは流石に辛いだろうなと思ったっが、そのとおり翌年には姿を消していた。

本当につくづく思うのだが、もう北海道の田舎は住み続けること自体が難しい。まったく人がいなくなってしまったから、世間というものが存在しなくなった。
店終いしなければならないが、問題は何処まで消滅してくのか、何処までなら維持しうるのかが見当つかなくなっていることだ。
私は思うのだが、これなら道端のどこでも、なにか目印を立てて穴を掘って骨を埋めても見つからないなということだ。もっと露骨に言えば、見つかって一言二言文句を言われても、それで知らんぷりしてしまえばOKだということだ。

話がそれた。私は喫茶店世代の頂点にいて、その衰退を見つめてきた。いったい喫茶店文化とは何だったのだろう。何故か真剣に考えてしまう今日このごろである。