ペンタゴン・ペーパーズ事件そのものは、1~2ヶ月で終わり、その後はウォーター事件に移っていく。
この事件そのものは主として政府とニューヨーク・タイムズ(NYT)の間で争われたのであり、ワシントン・ポスト(WP)に関する経緯はサイドストーリーと言える。
しかし前後の経過から見て、WPがNYTとタッグを組んで政府・権力と対抗したことの意味はきわめて大きい。そういう点でスピルバーグがこのエピソードをあえて取り上げた意味は決して小さくない。
ただそれだからこそ、そういう取り上げ方に留意しつつ、その基本的枠組みを政府権力との言論の自由をめぐる戦いととらえ、NYTの戦いを深く知って思いを致すことを訴えたいと思う。


64年 エルズバーグ、ランド研究所を経て国防総省に移り、国防次官補補佐官となる。核兵器、核戦争計画などを専門に扱う。
ダニエル エルズバーグ: 1931/4/7シカゴ生。ハーバード大学経営学部卒。ケンブリッジ大学に留学後、1954年海兵隊に志願、57年中尉で退役後にハーバード大学に戻る。59年、ランド・コーポレーションの戦略アナリストに就職。
65年 エルズバーグ、サイゴン米大使館に勤務。ゲリラ対策顧問として実戦も経験する。
65年9月 日本テレビ「ベトナム海兵大隊戦記」放送。第二部第三部の放送は中止。
65年 NYTのサイゴン支局にはニール・シーハンなど3人の優秀な記者を配置。シーハンはエルズバーグとも知り合っていた。一方、当時のWPは戦争支持で、反対の姿勢を打ち出したのは69年半ばであった(Newsweek)。
66年ころ 国防総省内でペンタゴン・ペーパースの作成開始(ニッポニカ
マクナマラ国防長官らが戦争に疑問を持ち始め、将来二度と同じ失敗を繰り返さぬ教訓とするため、客観的な分析記録をつくるように命じた。執筆者の多くは政策に携わって失敗を認めた学者グループであった。しかし何度も執筆者がかわり、最後は未完成に終わった。

なおこのマクナマラとペンタゴン・ペーパーズの関係については、エルズバーグが自著『ベトナム戦争報告』で描くもう一つの説がある。
67年初め、エルズバーグはサイゴンに向かうマクナマラに同乗し、みずからの意見を具申した。マクナマラはこの報告を聞いてペンタゴン・ペーパーズの作成を決断した。
というのが大意である。ただ、ニッポニカではすでに66年には、作業が始まっていたとされる。正直の話、この頃の彼にはちょっと、焦りがもたらす大言壮語があるかも知れない。
1967年
1月 エルズバーグ、ポーター次席大使の補佐官として、平定計画を担当する。この頃からベトナム戦争に批判的になったという。
7月 エルズバーグ、ベトナムから戻り、国防総省からランド研究所に復帰する。
7月 ペンタゴン・ペーパーズの作成開始時期についてはニッポニカ説に対し異論がある。隅井孝雄さんによれば「1年半かけて作成された」とあり、逆算すると67年7月となる。これはエルズバーグがランド研究所に戻った時期と一致する。(国家とメディアその1 ベトナム戦争の場合 隅井孝雄
10月30日 TBSの社長ら幹部が自民党に呼ばれる。翌年3月には田英夫キャスターが解任される。
1968年
1月 ケサンの包囲戦、フエ占拠、続いてテト攻勢が始まる。
2月 マクナマラ国防長官がジョンソンと衝突し辞任。後任はクラーク・クリフォード。
2月 CBSテレビの名物キャスター、クロンカイトがベトナムを訪問しレポート。
海兵隊と行動をともにしました。現地の海兵隊やヘリの中に,この戦争の現実を見たのです。血が流れるベトナム戦争はいまや終わりに近づき、袋小路にはまっています。
私はベトナムの真実を私の見たまま率直に語りました。ベトナム戦争から手を引いて,アメリカはベトナムから出て行くべきだと。交渉をはじめることです。怪物や妖怪とではなく、自らの祖国を守ろうとしている尊敬しうる相手との交渉です。
これを聞いたLBJは “I lost Cronkite , I lost the war” と語った。
5月 2年前におこなわれたミライ村虐殺事件がフランスのジャーナリズムにより暴露.米兵が子供を含む非戦闘員567人を殺害.
6.05 ロバート・ケネディ,ロサンゼルスで銃撃される.
1969年
1月15日 7000ページに及ぶペンタゴン・ペーパーズが作成される。レポートは退陣直前のクリフォード国防長官に提出される(提出者はレスリー・ゲルブ)。これにて全作業が終了。
正式名称は「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」国防総省内部で作成された非公開の報告書。3000ページの本文と4000ページの資料47巻からなる。
戦争目的に対する批判はないが、戦争遂行時の判断基準がないままに逐次投入していた経過が明らかにされている。
1月 クリフォードは「米国はもはや戦争を拡大するべきでない」とジョンソンに報告するもジョンソンは対応せず。これを知った作成者の一人エルズバーグは、ペンタゴン・ペーパーズのコピーを上院外交委員会に手渡している。またフルブライト上院外交委員長、マクガバン上院議員、キッシンジャー補佐官とも接触し説得を試みている(これもエルズバーグの自著による)。
1月20日 ニクソンが大統領に就任。我々は“名誉ある平和”を達成する」と演説。
5月 アシャウ渓谷の戦い。米軍は600名の兵の内46人が死亡、400人が負傷した。激戦が人間の肉をミンチにしたことから、ハンバーガーヒルと呼ばれる。10日間の激戦の末に勝利するが、司令部は確保困難と見て放棄。
5月末 NYT、カンボジアにおける秘密爆撃を暴露報道する。ニクソンはFBIにジャーナリストの電話盗聴を命じる。またニュース漏洩の源を知るため、政府幹部職員13人の盗聴も開始。
6月 現平成天皇の教師を勤めたバイニング夫人が逮捕される。ベトナム戦争に反対する彼女は、ワシントンの国会議事堂階段で、ベトナム戦争の戦死者の名前を読み上げていた。
6月 ライフ誌、最近の週にベトナムで戦死した242人の兵士の生前写真を掲載。死者たちの微笑んでいる若い顔は、全アメリカ人へ衝撃的な影響を与える。
8月 ウッドストック音楽祭、少なくとも40万人を動員。
10月 全米で反ベトナム戦争の大デモ展開,2百万人が参加.
12月 セイモア・ハーシュ記者、雑誌『ニューヨーカー』にミライの虐殺の真相を掲載。ピューリッア賞を受賞。
1970年
1月 ベトナム米軍放送局のニュースキャスターをつとめるロバート・ローレンス、検閲の廃止・言論の自由を主張。米軍はローレンスを告発。映画「グッドモーニング・ベトナム」のモデルとなる。
1.10 ニューヨーク・タイムズ紙,韓国軍がベトナムで数百人の民間人を虐殺したと報道。

4.30 ニクソン、カンボジアへの越境攻撃を開始。
5.04 オハイオ州のケント大学でベトナム反戦デモ。学内に侵入した州兵の発砲により、4人が射殺され9人が負傷する。
5.16 クリフォード前米国防長官。ライフ誌上でカンボジア進攻を批判。
70年 エルズバーグ、ランド研究所在籍のまま、マサチューセッツ工科大学の研究員となる。

1971年
1月 最後の大規模作戦となるラオス侵攻作戦が始まる。B52爆撃機400機の支援を受けた米・南兵2万9千人がケサンから越境攻撃。2ヶ月後に壊滅的打撃を受け撤退。
3月8日 反戦活動家がFBI庁舎に潜入。左翼運動に対する秘密調査文書を盗み出し、報道各社にリーク。FBIは情報活動を公式に中止。
3月 WP紙のアンダーソン記者,カンボジアの秘密爆撃を指示した国防総省の秘密文書を暴露.
3月 執筆者の1人であるダニエル・エルズバーグがコピーを作成し、NYTのニール・シーハン記者に手渡す。その後ワシントンポストにも同コピーが持ち込まれる。
タイムズ紙面
5月2日 ワシントンの反戦行動が激化。復員軍人が闘いの先頭に立つ。数日間に1万人以上が逮捕される。
6月1日 ニクソン米大統領が記者会見。「南ベトナムを共産主義者に引渡すようなやり方で戦争を終結させてはならない」と言明。
6月13日(日曜日朝) ニューヨーク・タイムズが連載記事として報道を開始。ワシントン・ポストなど他紙も文書の掲載をもとめ情報源探しに動く。
6月14日月曜日 NYTの長い1日
朝 ニクソン政権は司法長官名で記事差し止めを要求した。以後の司法関連の動きは隅井さんの記事が詳しい。
要請内容: 資料には合衆国の極秘扱の国防情報が含まれている。この情報の掲載は憲法793章、スパイ防止法第18章により禁じられている。今後掲載せず、文書を国防省に返還するよう要請する。
昼 NYT編集長のエイブ・ローゼンタール、印刷中の紙面を一旦止める。ロンドン出張中の社主ザルツバーガーとの協議に入る。
夜9時 NYTの社主と編集長は政府の要望を拒否すると発表した。
NYT声明: この記事はアメリカ国民の利益になる記事である。したがって司法長官の要請は拒否する。裁判になれば争う。しかし最高裁の最終決定が出ればそれに従う。
6月15日 連邦地裁で掲載停止の仮処分(手続上の処置)が出される。NYTは16日水曜日の掲載を見合わせることを決定。
6月16日 WPが株式を公開。資金導入による経営拡大に動く。
6月17日金曜日 WPの長い1日
朝 WPのバグディキアン編集次長がエルズバーグとの接触に成功。ケンブリッジの隠れ家でエルズバーグから報告書のコピーを入手。この時点でNYTの掲載は止まったままであった。
昼 WP、幹部会で18日からの掲載開始を決定。経営幹部からは強い難色が示される。
裁判で政府と争うことになれば公開直後の株式が動揺し、下落の程度によっては株主に違約金を払う必要が出る。また傘下のテレビ局の免許更新が直近に迫っており、政府が更新を認めない危険性もあった。
午後3時 政府はWPの秘密報告掲載の停止を求め、ワシントン連邦地裁に申立てする。
午後8時 ワシントン連邦地裁、1.政府の申立ては却下。2.最高裁決定が出るまでは掲載禁止の仮処分。3.すでに刷りあがっている18日付の紙面は発行を認める、との判断を示す。
ワシントン連邦地裁の踏み込んだ判断: 国の安全は自由主義体制によって守られる。国民の知る権利は報道機関によって守られている。憲法修正一条によって保護されるのは論説委員やコラムニストの意見ばかりではない。国民が政府の活動について十分知らされるようにするための情報収集の自由も含まれる。
6月 アラスカ選出のマイク・グラベル上院議員、徴兵制に反対してフィリバスター(議事妨害)の戦術を取る。このとき演説で「ペンタゴン・ペーパーズ」を読み上げる。
6月22日 米上院、政府に対する拘束力を持たない決議(マンスフィールド議員)を採択。年末までにすべての米兵部隊のベトナムからの撤退をもとめる。下院はこれを否決。
6月26日 NYTとWPを併合した最高裁での審理が始まる。ここまで連邦地裁は政府側の訴えを却下したが、連邦高裁は逆転し差し止めを認定した。
6月28日 エルズバークが、連邦調査局に出頭。記者会見で「裁判で闘う」と宣言する。
6月29日 最高裁は「政府は証明責任を果たしていない」として却下する。
最高裁の判断: いかなる表現の自由もそれを事前に制限することは憲法に反する。制限を正当化する理由を政府は明示しなければならないが政府はその義務を果たしていない。
7月 アーリックマン首席補佐官とチャールズ・コルソンが「鉛管工」部隊を組織。エルズバーグの監視とリーク防止を目的とする。コルソンはさらに反ニクソンの著名人200人を「政敵リスト」に載せ、監視を開始する。
7 NYT紙,SALT交渉に関する情報を暴露.政府の抗議に対し,最高裁は6対3で,「ジャーナリズムが事実を公表する権利を持っている」との判断を示す.
8月15日 ニクソン,国家非常事態宣言.金ドル交換を停止.ドル防衛策をうち出す.
8月 世論調査。大多数のアメリカ人は戦争が「不道徳である」と感じ、61%が全面撤退を支持。
9月 ニクソン政権はエルズバーグに対する信頼性低下に攻撃目標を転換。鉛管工グループのハントとリディー,エルズバーグのかかりつけの精神科医ルイス・フィールディングのオフィスに侵入.
後にこの鉛管工グループがウォーターゲート・ビルへの潜入にも流用された。この差右旋が露見したことがニクソン政権の命取りとなる。

この後、話題の中心はニクソン政権の方に移っていく。これについてはウォーターゲート事件関連年表
、またベトナム戦争全般については、米国年表 その3ベトナム戦争 その1 ベトナム戦争 その2を参照していただきたい。 

無罪判決
                告訴の棄却

1973年 エルズバーグは、「政府による盗聴」が判明したことから、告訴は棄却される。
エルズバーグは窃盗、情報漏洩など12件の重罪に問われ、115年の刑期の可能性も あった
7月 ビーコン・プレス、全文の出版に踏み切る。ユニテリアン協会の非営利小出版社。
72年 ニューヨーク・タイムズの記者デイヴィッド・ハルバースタム、『ベスト&ブライテスト』を発表。マクナマラを中心とした「最良の、最も聡明なはずの人々」が、いかにして政策を過まったかの過程を明らかにする。
ラスク国務長官、マクナマラ国防長官、バンディ兄弟、ロストウ、ガルブレイズ、カッツェンバックらが相当する。
2011年6月13日 「ペンタゴン・ペーパーズ」の機密指定が解除され、全文が閲覧可能となる。