大多鬼丸伝説について

はじめに

福島にこのような伝説があることは、初めて知った。

中路正恒「古代東北と王権」(講談社現代新書 2001)という本にちらっと紹介されている。すこし引用しておこう。

…そしてそうした森のなかに時として洞窟がある。例えば福島県滝根町の「鬼穴」と呼ばれる洞窟。それは大滝根山の山中にあり、かつて国家に抗して闘った人々(大多鬼丸ら)がそれに拠ったとされる、長さ80メートルほどの相当に広い洞窟だが、その入口は高さ80センチほどのもので、中に広い空間があるようには見えない。そしてこの「鬼穴」自体が奥でさらに大滝根洞とつながり、、さらにあぶくま洞にもつながっていて、その全体が総延長2600メートルを超える複雑な経路の束を作っているのである。…アメリカ軍に対してベトコン(南ベトナム解放民族戦線)が掘ったきわめて精巧な地下の洞穴は、それ自体が一種の兵器になっていたが、森のなかの洞窟も、多数の入り口を備え、多数の秘密の道を中継している場合には、戦術上きわめて有効な装置となるであろう。

この行り、あまり本論と関係ないのだが、なにかしら著者の大多鬼丸への思い入れが伝わってくる。ということで、「ひとつ曲がり角間違えて」行ってみることにした。

まず鬼穴について

おきらく・ごくらくCaving というサイトに鬼穴の説明がある。

鬼穴は、大滝根山の中腹に口を開けています。 間口は、120cmと小さめですが、横穴の内部には八畳敷と呼ばれるホールがあり、その先は、 つるべ落としと呼ばれる くねくねと落ちる竪穴で下層のあぶくま洞につながっています。

阿武隈洞の現在の流入口は、鬼穴への道を林道まで下り、そこから藪をこいだ先にある大滝根のドリーネ。 ここに、鉄策で囲われた、大滝根洞の入り口があり、ここを入っていくと、阿武隈洞の探検コースと接続します。

鬼穴

大滝根川を北に向かって下っていくと、鬼五郎、早稲川などの部落が続く。ついでながら、入水鍾乳洞の方はもっとすごいらしい。文字通り入水しながら進むようだ。

大多鬼丸 Who?

次いで「大多鬼丸」についてネットで調べてみた。

率直に言えば、大多鬼丸の戦いにアテルイの闘いほどの真実性はない。たんなるフォルクロアに過ぎないとさえ言える。

おそらくは福島県の中通り地域をさすらう門付け(琵琶法師)がそれぞれに脚色し、地名を織り込んでリアルさをもたらしたのであろう。古くからの言い伝えではあるが、物語であるがゆえに、その内容はさまざまなバリアントをふくめ実にいきいきと語られている。

そして、この大多鬼丸伝承は、謡曲「田村」において芸術の高処にまで昇華されていくのである。

情報はあまりに多く、話がとりとめなく広がる危険もあるが、できるだけ拾い上げながら話を進めていきたい。

大多鬼丸の生いたち

最初に言っておきたいのだが、大多鬼丸が生きたのは、実は田村麻呂より一世代前ではないだろうか。オリジナルな筋立ては、おそらくヤマトタケルの時代から東北地方で繰り返されてきた征服譚の一つであろう。

大和朝廷の北進とエミシの抵抗という全体の流れから言えば、福島が陸奥であった時代、福島で大規模な抵抗があった時代は、田村麻呂の時代より前だと思う。それは田村麻呂のメインの功績であるアテルイとの戦いをさかのぼり、多賀城の闘いをさかのぼるものであったと考えられる。

これについては、後で、詳しく触れる。

大多鬼丸というのは大和朝廷の勢力と対決するようになってからで、それまでは滝根地域のボスという意味で滝根丸と名乗っていたらしい。

滝根地域というのは相当の山間部だが、もともとの出生地は郡山西田町の鬼生田(おにうだ)といわれる。現在も鬼生田という地名は残っている。一説では地獄田(じごくだ)とも言われる。
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郡山にほど近い開けた土地である。大滝根はここよりはるかに東磐越東線を行ったところである

 桓武天皇の時代、地獄田という所で一人の男の子が生まれました。その子は七歳のころになると、五尺もある立派な身体の持ち主となりました。生来凶暴にて、墓を暴いて死人を食ったり暴力を振るうようになりました。そこで親も恐れてその子を殺そうと考えるようになったのです(親もなかなか怖い)。

子どもはそれを察知すると家出をしました。何年か後、その子は大滝根に住んで滝根丸と名乗り、手下を大勢率いては旅人や村を襲っていました。

村人たちは滝根丸のことを「あいつは鬼のように恐ろしい」と噂しました。また滝根丸も自分のことを「俺は鬼だ」と言って益々悪いことをするようになりました。

このように鬼が生まれたということから鬼生田という地名になったのです。

ということで、鬼生田の地元では家出した不良少年の成れの果てという扱い、悪い話ばかりのようだ。しかしそれなら、いっそ名をはばかれば良いものを、と思ってしまう。

じつは田村麻呂が生まれたのも西田町(旧宮田村)となっている。ひょっとして二人の幼少期キャラは伝承の中でかぶっているのかも知れない。

滝根方面に伝わる伝承では、そんな野盗の首領というのではなく、行政の長として手腕をふるっていたように描かれている。

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 こちらはポジティブなイメージ

滝根丸は陸奥国の田村郡七里ヶ沢付近をおさめていた。

七里が沢は現在の小野町に当たる。小野町は田村郡の一部で、磐城へとつながる街道筋に伸びる。磐越東線の沿線でもある。

街の東に山並が迫り、これを大越峠で越えると、大滝根部落に出る。大滝根は大滝根川の源流地帯であり、阿武隈山地最高峰の大滝根山(霧島山)の山麓地帯でもある。

大滝根

小野町のホームページから引用する。

小野郷の地名は倭名抄にある。以前は「七里ヶ沢」とよばれていたことが分かっている。

桓武天皇の御世のこと。征夷大将軍として朝廷の命を受けた坂上田村麻呂の東征後、小野篁が救民撫育使として着任したと言う。ほかに小野六郷という呼称も残っている。

ということで、きわめてイデオロギッシュな地名だということになる。

大多鬼丸の戦い

西暦800年頃に朝廷は臣従と朝貢をもとめた。大多鬼丸はこれを拒否し、朝廷と対立するに至った。大多鬼丸は霧島山(現在の大滝根山)に白金城を構え朝廷と争う姿勢を見せた。

以下は赤津四郎のこもった鬼ヶ城についての記述だが、この赤津というのは大多鬼丸と同一人物であろうかと思われる。(ネットでの検索不能)

この城には鬼穴という大きな岩窟があった。その下に蝦夷窟と呼ばれる十三の岩窟が南向きに開けていた。そのそれぞれが七~八人を収容したという。そこから麓の谷に向けて両側には数個の蝦夷穴が並んで街路のようであった。
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仙台平の大多鬼丸の首塚
朝廷は征夷大将軍であった坂上田村麻呂を送り込み、両者の間に戦闘が展開された。大多鬼丸は洞窟を縦横に用いてゲリラ戦を展開したが、最後に追い詰められ、大越の「鬼穴」(達谷窟)で自害した。近くの仙台平という高地は大多鬼丸の首塚と言われ、立派な塑像がそびえ立っている。

鬼五郎・幡五郎兄弟の戦い

これには後日談があり、大多鬼丸の部下の鬼五郎・幡五郎兄弟が、根拠地たる早稲川で引き続き抵抗を続けたと言う。やがて兄の鬼五郎も戦に倒れるが、幡五郎が遺志を継ぎ、村を守ったと伝えられる。

この地には今も鬼五郎渓谷という地名が残る。あるサイトには以下のように書かれている。

鬼五郎渓谷は阿武隈川の支流である大滝根川の源流部に位置する。田村市大越町早稲川に大越登山口への入口がある。ここから沢側へ続く踏み跡が鬼五郎渓谷である。


説話(フォルクロア)としての大多鬼丸ものがたり

基本的な筋立てはそのままに、異なる視点からの説話が次々と付け加えられ、いつの間にか大多鬼丸と坂上田村麻呂と言う二人の英雄の生い立ち、たがいの言い分まで含めた一大物語になっている。

それらの説話が桐屋号さんのブログに集中的に掲載されている。これが、一種の『神話の誕生』の過程が伺えまことに面白い。以下しばらくは、このブログからの引用を中心に話を組み立てていく。

異説あれこれ

1.大多鬼丸を征伐したのは田村麻呂か?

実は田村麻呂が大多鬼丸と闘ったというのは、史実と比べて少々無理がある。

桓武天皇の延暦二十年、千島大多鬼丸の残党が霧島山(大滝根山)の岩谷にこもり悪行を重ねていたので、田村麻呂将軍が征討にやってきました。

となっているが、これは801年の話だ。

私が以前作成した東北エミシ年表をご参照いただきたいが、

同じ801年2月に坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、日高見国攻略作戦を開始した。4万の軍が胆沢のアテルイ軍を破る。アテルイとモレイは度重なる物量作戦により弱体化。

9月 坂上田村麿、「遠く閉伊村を極めて」夷賊を討伏したと報告。

802年1月 田村麻呂、アテルイの本拠地に胆沢城を造築。多賀城から鎮守府を遷す。住民を追放した土地に、関東・甲信越から4000人が胆沢城下に送り込まれ、柵戸(きのへ)として警備にあたる。

4月15日 アテルイとモレ、生命の安全を条件とし、500余人を率いて田村麻呂に降伏。二人は平安京に連行される(日本紀略)。

803年 陸奥国(岩手県北部)に志波城造営。ただしこれにはみずからは出陣していない。

ということで、福島などでじっくりもぐら叩きなどしている暇などないのだ。

2.実は父苅田麻呂ではなかったか?

伝説の中には田村麻呂の父苅田麻呂をあてる説がある。郡山市史によれば、苅田麻呂は蝦夷征伐のため大熊に乗ってこの地にやってきたとされる。

苅田麻呂は川を渡り熊渡に着き、そこを屯田(みやけだ)とした。これが後の世に御代田と改められた。川には大熊川の名が付けられた。これが後にアウクマ川となった。

といういかにも風の牽強付会説話だが、このようにして父・苅田麻呂が福島を征服していなければ、田村麻呂はとてもアテルイと戦えなかったのではないかとも思う。

田村地区ではもっと膨らませた、ほとんど別のストーリーが展開される。

国見山に大武丸という東夷の酋長が反乱を起こしたので、坂上苅田麻呂が直宣を受けて征伐に来ました。

ただこの苅田麻呂に前後して似たような征服譚が併起している。たとえば征夷大将軍の藤原小黒丸がいる。小黒丸は郡山近辺でエミシと戦いかなり苦戦しているが、780年に三穂田の高幡山の宇奈己呂和気神社のご利益で勝利したという説話が残っている。

ところがこれと真っ向から対立する記録もあって、781年に陸奥出羽按察使として藤原小黒麿を下向させたが勝利できなかった。このため782年には大伴家持を按察使兼鎮守府将軍とした。家持も当初はかばかしい戦果が得られず、同じ高旗山に祈願して勝利できたという。


3.田村麻呂は苅田麻呂の御落胤か

間もなく苅田麻呂は大武丸を征伐し、都に帰って行った。この間に現地妻の阿口陀媛が妊娠したのである。阿口陀媛は高野郡(今の田村地域南部と石川郡北部)に住んでいた橋本光忠の娘だという。

阿口陀媛は熊渡の室家山童生寺で、玉のような男の子を生みました。このお寺は宮田村(郡山市西田町宮田)にあったようです。

阿口陀媛は木賊田の産清水で産湯を使わせ、徳定の抱上坂で赤子を抱き上げました。子は鶴子丸と名付けられました。

しかし育児に困った阿口陀媛は、赤子を田の畦に捨ててしまいました。

普通は御落胤というのは地元で大切に育てるものだが、一体どういうことか。

やがてコインロッカーベイビーの鶴子丸は成人し、父苅田麿を頼り都に上った。

苅田麻呂の邸前に着いた時、邸内から外れ矢が飛んできました。鶴子丸は、持っていた自分の矢を投げ返しました。その矢は矢音高く飛び上がり、邸内にいた苅田麻呂の前に突き刺さったのです。

怪しんだ苅田麻呂は表を尋ねさせました。そこにいた小童に訳を聞き、息子だと知りました。それからは、鶴子丸は生地の名にちなんで田村麻呂と名付けられ、父のもとで育ちました。

(桐屋号さんのブログより)

という話がある。

これは田村市の田村地域での伝承のようである。長めに引用したが、このご都合主義のシュールさがいかにも民話としての「真実性」を帯びて輝いている。

4.悪路王は別人?

「悪路王」の話というのが岩手県の方にある。はほとんど大多鬼丸と重なる。やっつけたのが田村麻呂であるのも同じである。時代的にも変わらない。しかし大多鬼丸は福島であり、悪路王は平泉である。

岩手県が洞窟が多いのは有名である。しかしこれはどちらかが正しければどちらかが間違いということになる。ただ大多鬼丸が1世代さかのぼるとすれば、両立は不可能ではない。

印象としては、大多鬼丸がまずあって、悪路王はTPOを変えて誰かが着せ替え人形で創作したのではないか。悪路王は1189年の「吾妻鏡」が初出であり、義経征伐に赴いた頼朝が道中で捕虜から聞いた話として記録されている。

捕虜いわく「ここは田谷の窟といいます。田村麿や利仁らの将軍が帝の命を受けて蝦夷討伐に赴いたとき、賊の主である悪路王や赤頭らが砦を構えていた岩屋です」

ということで、大多鬼丸の説話への摩り寄せが行われている可能性が強いと思う。それだけ大多鬼丸の話は人口に膾炙していたのではないだろうか。

大多鬼丸と謡曲「田村」

そう思うのは、実は謡曲「田村」(古浄瑠璃)が、まさに大多鬼丸と田村麻呂が主人公として登場する作品だからである。

ここでは「日本を覆さんが為 数千の眷属、引き具し」伊勢の鈴鹿山に天下った大竹丸と、坂上田村麻呂の死闘が繰り広げられる。