下記のWebページに松浦武四郎の樺太文書が紹介されている。
ここから抜粋、引用させて頂く。

樺太については、松浦武四郎著「近世蝦夷人物誌」に詳しく述べられている。しかし難しくて解読が困難であるので、更科源蔵・吉田豊共訳による「アイヌ人物誌」より抜粋してみたい。

松浦武四郎の時代、和人は樺太を北蝦夷と呼んでいた。
樺太(カラフト)というのはアイヌ人の呼び方である。カラフトとは唐(カラ)人の意味である。
唐人というのは外人の総称であり、中国人というわけではない。
全国樺太連盟のページでは、樺太の語源はアイヌ語で、カムイ(神)、カラ(造る)、プト(河口)、アツイ(海)、ヤ・モシリ(丘・島)と記されている。松浦武四郎説は現在は否定されているが、当時の和人がそう解釈していた可能性はある。
カラフトのうち、ロシア人はよく赤い衣服を着ているので赤人(アカフト)と呼ばれる。
むかしアイヌは樺太には住んでいず、山丹人とウィルタの世界だった。
山丹人というのは間宮海峡の両側に住むニブフ族のことで、そのむかしは粛慎(オホーツク人)として北海道北部まで住んでいたのが、次第にアイヌに追いやられたものとされる。
山丹人が蝦夷地に来て大陸産の品物を持ちこみ、カワウソ、狐、黄テンの毛皮などと交易した。
その後、アイヌが樺太に進出するようになった。1809年(文化6年)から松前藩はアイヌの居住区を北蝦夷と呼ぶよう指示した。(それまでは北海道と一括して蝦夷地)
北蝦夷を樺太と呼ぶようになったのは明治になってからで、北海道と同じく松浦武四郎の提案による。

松浦による樺太地図(松浦武四郎記念館  蔵
樺太北部
樺太南部

ということで、長い前振りが終わって、ここから
梅木孝昭「サハリン 松浦武四郎の道を歩く」(道新選書 1997)のノートを開始する。
かなり細かい地図が必要になるが、順次紹介していきたい。

余談だが、松浦のアイヌよりの姿勢がしばしば強調されているが、私の印象としてはむしろ松前藩の悪政と人権無視に対する怒りがまず最初ではないかと思う。
それは津における最初の師、平松楽斎の影響があったと思う。平松は多彩な能力を持ち、民衆の立場に立った知識人であった。大塩平八郎とも接触を持っていたようだ。
松浦の遍歴の時代は天保の大飢饉が日本中を襲った時代だ。それに対して、従来型の武士ではない民衆指向性と科学精神を併せ持った人材が各地に輩出した時代でもある。
おそらくその一部は維新運動の志士ともなったであろうが、それよりもっと広範に草莽の士として分散していたのではないだろうか。松浦は彼のヴィルヘルム・マイスターの時代を経て各地でその息吹きに触れたのではないだろうか。
そういう全国レベルでの人の上に立つものの誠意に引き換え、松前藩のおさめる蝦夷地はあまりにひどかった。人間のクズ共がいかにもクズらしく利を貪っていた。それが許せなかったのが最大の理由であろうと思う。
だから、松浦の抗議とか運動とかの根は意外に浅い。場面場面では闘っているように見えても、意外と権力そのものとの闘いにはなっていかない。全国を歩き回る執念に比べれば、それはずいぶんと淡白なものであった。

もう一つ、松浦という人がスーパーマンであることにまったく異論はないのだが、若干話をふくらませる傾向がある人物であることも疑いなさそうで、まぁ悪気はないのだからいちいち目くじら立てる必要はないのだが、すべてを史実と断じるのではなく一種の「ドキュメンタリ」として見ておくのが良いと思う。ということは、もし客観的事実と合わない記述があれば、そこは一種の創作と判断すべきだろうということだ。

2015年09月16日