松浦武四郎と樺太
これまで最上徳内と間宮林蔵による樺太探検を勉強してきたが、ここまでやっておいて松浦武四郎の探検を触れないのは片手落ちであろう。
松浦の樺太をふくむ蝦夷地探検は全6回に及ぶが、そのうち2回、樺太まで足を伸ばしている。
これらについて詳しくレビューしているのが梅木孝昭さんの「サハリン 松浦武四郎の道を歩く」である。
梅木さんはたんなる回顧の旅ではなく、ほとんど松浦武四郎に匹敵するような探検を試みている。
この本は1997年に道新選書の一冊として発行されている。
この本をもとに例によって年表化してみたい。といっても松浦武四郎の日誌は微に入り細に渡るので、メリハリをつけなければなるまい。それは作業しながらおいおい考えることにする。
まず、松浦武四郎の全体像を知るために彼の年譜もあわせて載せておく。(記述の多くを松浦武四郎記念館資料による)。印象としてはこの年表記載がもっとも正確であり、梅木さんの年表には若干の潤色があるかも知れない。
なお樺太全体の年表については私の作成した下記の年表をご参照いただきたい

1818年3月 伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて出生。父親は紀州藩地士で庄屋を営む豪農であった。
出生地は須川村となっているが、なかなか探すのは難しい。
伊勢国一志郡は松坂と津に挟まれた農村地帯であるが、江戸時代は紀州藩と津藩の所領が混在していた。
ウィキペディアで調べると、須川村という村名はない。紀州藩領として森須川村というのがあり、これが明治7年に改称して小野江村となっている。改称の理由は不明だが合併とか分割とかではない。
ただし小野江村はその後、肥留村、西肥留村、舞出村、甚目村などを併合している。
昭和30年の第一次合併の際に、小野江村は米ノ庄村・天白村・鵲村と合併し三雲村を形成した。これにより小野江は三雲村内の字名となった。
平成17年の第二次大合併により、三雲町(旧三雲村)は松阪市と合併し、消失した。
大正13年の三重県地図が参照できる。
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1818年 この年伊能忠敬が死亡。
1824年 真学寺で読み書きを習う。(真学寺は曹洞宗の寺で、今も真覚寺として現存している)
1831年(13歳) 津藩平松楽斎の塾で学ぶ。平松は藩校を創設した学者。本草学に秀で、天保飢饉に際し「救荒粥」を案出。ほとんど餓死者をださなかった。神明流剣術の遣い手でもあり、大塩平八郎とも交流があった。
天保の大飢饉: 1833年に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化、全国で100万人以上の死者を出した。
1833年 手紙を残して突然家出。江戸で篆刻を学ぶが、見つかり連れ戻される。その後も「遊歴の志ざし止まず」(この項は脚色されているかも)
1834年(16歳) 京都、大阪で見聞。その後北陸・東北の諸国をめぐる。
1835年 江戸に戻り、水野忠邦邸に奉公。その後思いあって出家(真言宗)し文桂を名乗る。(長崎で出家したときに文珪と名乗ったという記載もある)
1836年 ふたたび諸国巡歴。瀬戸内海周辺をめぐり周防に達する。
武四郎は篆刻により旅費を稼いでいた。「是に於て発奮し自ら一本の鉄筆と一冊の印譜とを懐に瓢然として浪華の街に下り…」と述べている。
1837年 九州にわたり諸国を遍歴。入国の取締りが厳しい薩摩には曹洞宗の僧形となって入っている。
1837年 天保飢饉の影響が広がる。大塩平八郎の乱が発生。大阪では毎日約200人を超える餓死者。
1838年(20歳) 長崎で大病を患う。これを機に禅僧となり文桂と名乗る。九州の見聞を記した「西海雑志」を著す。
1839年 平戸の田助在曲村の宝曲寺の住職となる。天桂寺も兼務。この年五島列島を旅する。
平戸は松浦武四郎の祖先とされる松浦水軍の発祥の地であり、平戸定着への思いはあったとみられる。
1843年(25歳) 平戸村木引(粉引)免の千光寺に移転。
9月 田助のいか釣り船に便乗して壱岐・対馬に渡り、朝鮮入りを目指す。半月後に「其国禁の厳しければ行くことも難く」断念する。
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 松浦市 福島町 伊万里市 佐々町 武雄市 有田町 新上五島町 ... - 西肥バス
1843年 平戸光明寺(真宗の名門)の了縁に師事。詩歌・画を学ぶ。
1843年 長崎でロシア(赤蝦夷)南下の危機を知り、一転蝦夷地を目指す。
1844年(27歳)
2月 伊勢で父母の供養をすませたあと還俗。伊勢神宮に参拝して蝦夷地へ向かう。
9月 津軽半島の港町鯵ケ沢に到着。便が得られず天候悪化のため年内の渡海を断念。仙台藩領唐仁村に達し、そこで越年する。
1845年
1月 いったん江戸に戻り、準備作業。
4月 鯵ケ沢に着き、江差の商人の持舟に便乗。待望の蝦夷地入りを果たす。
4月 江差に人別を入れて身分証明を得、箱舘の商人和賀屋孫兵衛の手代という名目で、東蝦夷地に向かう。海岸線沿いに根室(歯舞諸島および知床岬)までを往復。
10月 箱舘にもどる。
1846年(29歳)
2回目1846
4月10日 第2回調査に向け江差を出発。樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行。名は雲平、法被姿の草履取りとして付き従う。
5月17日 宗谷港に到着。
5月25日 風待ちの後、西ノトロ岬南端の白主を目指すが、「出し風」が強くベシトモナイ(菱苦)まで流される。このため徒歩にて白主にたどり着く。
閏5月1日 白主を出発しアニワ湾内の久春古丹に達する。
番人らが三、四十人おり役人も六人ほど詰めている。アイヌの戸数は二十戸ほど。春二シンで賑わっており、アイヌの漁夫が千人ほども集められていた。
閏5月20日 久春古丹からチベサニ(長浜)に行き、ワワイ(和愛)・チベサの湖を経由して半島の付け根を横断、東海岸のトンナイチャ(富内)に出る。東海岸を北上し、マーヌイ(真縫)の南隣のシララオロ(白浦)へ着いた。
ここまでの通過地名を列挙しておくと、
クシュンコタン→トウブチ(遠淵)→シラリウトル→トンナイチャ(富内)→オチョホカ(落帆)→イヌヌシナイ→ヲショヱコン→ナイフツ(栄浜)→オタサン(小田寒)→マトマナイ(真苫)→シララオロ
白浦にはノテカリマという「全島を統率する」長老(エカシ)が住んでいた。滞在中、たまたまオロッコ人とタライカ人総勢十八人が四艘の船で挨拶にやってきた。
閏5月28日 シララオ口から西海岸クシュナイ(久春内)ヘ出た。これより南に戻る。
ここからの通過地名を列挙しておくと、
シララオロ→マーヌイ(真縫)→山越えで西海岸へ→クシュンナイ(久春内)→ナヨロ(名寄)→ノタシャム(野田寒)→ヒロチタラントマリ(広地)→トコンボ→モイレトマリ→ショウニ→ベシトモナイ(菱苦)→シラヌシ
6月28日 シラヌシに戻る。
7月16日 宗谷へ渡る。この後松浦武四郎は単独で、宗谷-知床岬間のオホーツク海岸を往復。利尻・礼文に渡る。
9月 江差へ帰着する。
1847年 箱館に滞在。松前藩の内情を探る。
1849年(32歳) 第3回目の蝦夷地調査。船で国後島、択捉島に渡り調査。ここまで3回の調査はすべて個人の意志によるもの。
1849年 わが国初の北海道図として「蝦夷大概図」を発行。
1850年 「初航蝦夷日誌」全12冊・「再航蝦夷日誌」全14冊・「三航蝦夷日誌」全8冊が完成。
1854年(安政元年) 日米、日露などの和親条約が締結される。
1854年(安政2年) 宗谷場所、再び天領となる。秋田藩が宗谷警備を行う。翌年には箱館奉行所支配組頭が宗谷場所を引き継ぐ。
1854年 蝦夷、樺太、千島の地図を作成し幕府に提出。松前藩は松浦を幕府のスパイと見て活動を妨害する。
1855年(38歳) 江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢される。(正式官名は蝦夷地受け取り渡差図役頭取)
1856年 (39歳) 第4回目の調査。向山源太夫(箱館奉行支配組頭)を隊長とする調査隊の一行に加わる。
4回目1856
3月 箱館を出発。西海岸を北上する。
5月22日 宗谷を出帆し白主に上陸。
前回北限のマーヌイからさらに北上。カシホ、マグンコタン(浜馬郡譚)、シルトル(知取)、トマリケシ(泊岸)、ナヨロを経てタライカ湖畔のシリマヲカ(敷香)に至る。マーヌイまで 引返して西岸の久春内に出たあと、ライチシカまで北上しその後白主に帰還。
8月7日 白主を出帆して宗谷に帰着。その後知床に周り箱館に戻る。

1857年(安政4年)
4月 第5回目の調査 石狩川や天塩川を河口から上流部まで遡る調査。
8月 箱館に戻る。
1857年 松浦武四郎、「蝦夷山川地理取調方」となり「東西蝦夷山川地理取り調べ日誌」を作成。
1858年 (41歳) 
第6回目の調査。蝦夷地のほぼすべての海岸線と日高地方の河川、十勝、道東地域の内陸部の調査
三回の調査をもとに「東西蝦夷山川地理取調図」を出版。探検の体験をもとに、アイヌ民族の人口が激減していることを憂い、アイヌの命と文化を守ることを訴える。
1859年 安政の大獄。知己の吉田松陰、頼三樹三郎らが死刑となる。
1861年 「後方羊蹄日誌」・「石狩日誌」・「久摺日誌」・「十勝日誌」があいついで出版される。
1869年 開拓判官となり、蝦夷地を「北海道」(当初は「北加伊道」)と命名した。
1888年 東京の自宅で脳溢血により死去。