1517年
春 教皇・レオ10世、サン=ピエトロ大聖堂修築資金を集めるため、「免罪符」の販売を指示。
10月31日 ルター(34)、教会の改革を促す「95箇条の論題」を発表。免罪符について「売る人も買う人も永遠の罪を受ける」と非難。
マルチン・ルター: 1483年に鉱夫の息子として生まれる。ウィッテンベルク大学で神学を教えていた。
1518年
3月 ルター、教皇庁への批判を旺盛に展開。要約はドイツ語に訳され、活版印刷技術により全国に広まる。
4月 ドミニコ会がルター糾弾のキャンペーンを開始。
6月 ルターに対する異端審問が始まる。
10月 ローマ教皇は特使を派遣しルターに出頭をもとめる。ルターはこれを拒否。
1519年
1月 ルター、教皇特使と妥協。双方共に意見を公的に発表しないことで合意(アルテンブルク協定)。事態はこれでいったん沈静化。
6月 ライプツィヒでルターとエックの公開神学論争。ルターはウィクリフやフスの説にも真理があると主張した。ウィクリフとフスは異端として処刑されていた。
19年 神聖ローマ皇帝選挙。カール5世が皇帝に選ばれる。
1520年
6月 教皇、勅書にてルターに破門を警告。
12月 ルターはヴィッテンベルクの公開の場で教皇の回勅を焼き払う。
20年 ルターの門弟ミュンツァーがツウィッカウへ布教に入る。
トマス・ミュンツァー: 「神の国」の建設を訴えるなど、ルターより急進的だった。その後プラハ、ザクセン、アルシュテットなどを流浪する。

1521年
1月5日 教皇庁がルター(38)を正式に破門する。ルター(38)は異端者と宣告される。
4月 神聖ローマ帝国、ヴォルムス国会を招集。ルターの一切の法的権利を剥奪する帝国追放令を発する。
5月3日 ザクセン選帝侯フリードリヒ3世、ルターをヴァルトブルク城にかくまう。
フリードリヒはルターが何者かに誘拐されたように見せかけたと言う。ルターには「騎士ゲオルグ」という偽名が与えられた。
1522年
3月 ルターがザクセン選帝侯の止めるのを押し切り、ウィッテンブルク大学に戻る。この後現地で宗教改革を進める。ルターはヴァルトブルク滞在中に新約聖書を古代ギリシア語から翻訳し、大量に頒布した。
9月 帝国騎士の乱(Ritterkrieg)が始まる。ジッキンゲン(41歳)、フッテン(34歳)らの率いる騎士団が、トリエル大司教兼選帝侯を襲撃。間もなく鎮圧される。
ジッキンゲン: 神聖ローマ帝国で帝国侍従・顧問官を務める幹部。
フッテン: 精神面の指導者。神聖ローマの桂冠詩人に叙せられた人物。
1524年
2月 フランス王フランソワ1世は、北イタリアに進軍。神聖ローマ帝国も大軍を動員し反撃にでる。
2月 軍の不在をついてドイツ国内各地で農民戦争(Bauernkrieg)が始まる。
1525年
北イタリア戦争が終結。神聖ローマ軍が快勝し、フランソワ1世を捕虜にする。
5月15日 神聖ローマの正規軍を投入することで、農民軍は瓦解。農民戦争が終結する。“首謀者”のミュンツァーは拷問の末斬首となる。ルター派は無傷で残る。
1526年
シュパイエルで神聖ローマ帝国議会が開催される。第1時シュパイエル国会と呼ばれる。ヴォルムス国会のルター追放令を凍結。
1527年
ヘッセン伯フィリップがルター派を熱心に支持。ザクセンも引き続きルター派を支持。
フィリップ(23): 市民階級の人々を起用し、一種の啓蒙専制政治を行う。首都マルブルクに最初のルター派大学を設立。
1529年
第2シュパイエル国会、教会改革の中止を指示。6人の諸侯と14の自由都市が良心の自由を求め抗議書(Protest)を提出する。
1531年
1月 シュマルカルデン同盟が結成される。ヘッセン伯フィリップとザクセン選帝侯ヨハン公を軸に、新教派諸侯とマクデブルク、ブレーメン、南ドイツの自由都市が参加。

1546年 
カール5世(46歳)とカトリック派諸侯がシュマルカルデン同盟への武力攻撃を開始。

1547年
4月 ミュールベルクの戦いで皇帝軍が勝利。プロテスタント派のヘッセン伯やザクセン選帝侯は捕虜となる。
1548年 
カール5世、「アウクスブルクの暫定取り決め」を発表。新旧両教会の合同を定める。北部ではほとんど実施されず。
1551年 
モーリッツ・フォン・ザクセンがフランス王の援助を取り付け、ヘッセン伯、ブランデンブルク辺境伯などとともに神聖ローマに反抗。「君主戦争」と呼ばれる。
1552年 
両者が停戦し、パッサウ条約が結ばれる。捕虜となっていたプロテスタント諸侯は解放される。
1555年 
アウクスブルクにて帝国議会。アウクスブルクの宗教和議が成立。ルター派の存在を公式に認め、各諸侯にはカトリックとプロテスタントを選択する権利が認められる。