カントの先駆者たち 
<ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)>
1646年7月 ザクセンの首都ライプツィヒに生まれる。父はライプツィヒ大学哲学教授のフリードリッヒ・ライプニッツ。
1661年 ニコライ学院を卒業し、ライプツィヒ大学に入学し、数学や哲学を学ぶ。
1663年6月 哲学の学士論文をライプツィヒ大学に提出。
1664年 哲学の修士論文をライプツィヒ大学に提出。
1666年 ライプニッツ(20歳)、ニュルンベルクのアルトドルフ大学に法学の博士論文を提出。
1673年 庇護者のマインツ選帝侯の死。ライプニッツはパリで求職活動を行う。この間に多くのフランス人学者と交流。
1675年 微積分法を発見する。
1676年 バールーフ・デ・スピノザを訪問。『エチカ』の草稿を提示される。
1676年 30歳。ハノーファー選帝侯の宮廷に仕える。
1700年 54歳。ベルリンに招かれ、ベルリン科学アカデミーの設立に尽力。初代総裁に就任する。ハノーファーからプロイセンに嫁した王妃ゾフィーの招きによるもの。
1704年 ロック思想を批判的に検討する「人間知性新論」を執筆。脱稿直後にロックが亡くなったため発刊中止、出版は死後となる。
1710年 アムステルダムの出版社から『弁神論』を匿名で発表
1714年 『モナドロジー』の草稿を書きあげる。発表は没後となる。
モナド(単子)は単純実体である。表象と欲求とを有する。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはない。神が設けた「予定調和」によって、他のモナドと調和しながら自己を展開する。
1714年 選帝侯妃ゾフィーが死去。息子が即位し同時にイギリス国王を兼任。ライプニッツは家史編纂の閑職に追いやられる。
1716年 70歳。ハノーファーにて死去。その著作の大半は未完で、現在も全集は完結していない。

<クリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff)>
1679年1月 パン屋の息子としてブレスラウに生まれる。
1700年 イェーナ大学で哲学と数学を修める。
1702年 ライプツィヒ大学に移る。
1703年 論文『数学的方法で書かれた一般実践哲学について』を発表。教授資格を得る。この論文をライプニッツに送り高い評価を受ける。
1706年11月(27歳)ライプニッツのの推薦で、ハレ大学の数学・自然学教授となる。
ハレ大学はブランデンブルク選帝侯により創設され、「敬虔主義の牙城」であった。敬虔主義はプロテスタント内の原理派。
1709年 哲学科の教授も兼任。論理学、形而上学、倫理学を教える。 一部の学生が神学や聖書について定義や証明の改善を求めるようになった。このためヴォルフは「神学嫌悪」を引き起こしてると非難される。
1711年 ライプニッツの推薦によってベルリン・アカデミーの会員となる。
1712年 ヴォルフ、最初の体系的著作「ドイツ語による論理学」を発表。
1715年 プロイセン国王から宮廷顧問官(Hofrat)の称号を授与される。
1719年 第2作目の体系書「ドイツ語による形而上学」が刊行される。
ヴォルフの代表作と言われる。第二章は存在論(事物論)、第三章は経験的心理学、第四章は宇宙論(世界論)、第五章は合理的心理学、第六章は自然神学を扱う。 存在論は事物を一般的に考察し、他は特定の対象を弁証する。
1721年 ハレ大学の副学長を退任。記念講演で「中国人の実践哲学について」を語り、孔子を称賛する。
1723年11月(44歳) ヴォルフ、無神論の罪でプロイセンを追放される。プロイセンではヴォルフの哲学を重罰をもって禁止する。
1723年 ヴォルフ、ヘッセン=カッセル方伯の招請を受け、マールブルク大学の哲学科主任教授となる。
1733年6月 パリの王立学術協会の外国人会員に選ばれる。この後、プロシアでのヴォルフの研究はなし崩しに容認される。
1735年 ヴォルフの書籍がハレで刊行される。
1740 年、ヴォルフを追放したフリードリッヒ・ヴィルヘルム一世が死亡。フリードリッヒ二世(大王)が即位。
1740年(61歳) ハレ大学に返り咲く。5年後には学長となる。
1754年4月 死去。

<バウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten>
1714年7月 ベルリンで7人兄弟の5男として生誕。父は軍営教会の牧師。
1727年(13歳) 両親が早世し、里子としてハレに移り住む。 12 歳年上の長男ジークムント(のちにハレ大学教授)が指導した。 
1730年(16歳) 飛び級でハレ大学に進む。
このときすでにヴォルフ追放後7年を経過している。彼の教師となったのはヴォルフを追放したランゲであった。
1735年(21歳) 哲学でマギスターの学位を取得。
1735年 論文「詩に関する若干の事柄についての哲学的省察」を発表。教授資格を得る。
この論文で「美学」(aesthetica)の概念を提唱した。 可知的なものは論理学の対象であり、可感的なものは感性の学としての美学の対象である。
1737年 ハレ大学の員外教授となる。
1739年(24 歳) バウムガルテン、『形而上学』を公刊する。
1740年 ハレを去り、フランクフルト・アン・デル・オーデル大学教授。ヴォルフとはすれ違いとなる。
1750年 「美学」(aesthetica)を発表。(未完に終わっている)
1757年 『形而上学』を発表。「エステティカ」の訳語に「美しいものの学」を充てる。