イマヌエル・カント 年譜
森本誠一さんのサイトその他を参考にさせていただきました。より詳しく知りたい方はそちらにお進みください。

1724年4月 カント、ケーニヒスベルクに生まれる。馬具職人の四男(9人兄弟)であった。
1732年(8歳) ラテン語学校のフリードリヒ学院に進む。この学校は当時プロシアで優勢であったプロテスタント敬虔主義の教育方針をとっていた
1740年(16歳) ケーニヒスベルク大学に入学。当初、神学をこころざす。のちにライプニッツやニュートンの自然学を研究。
1746年(22歳) 父の死去にともない大学を去る。正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったとされる。その後は家庭教師をして生計をたてる。

前「批判」期
1749年(25歳) 卒業論文『活力の真の測定に関する考察』が出版される。『引力斥力論』などニュートン力学や天文学を受容。
1755年(31歳) 最初の論文「天界の一般的自然史と理論」を発表。
銀河系は多くの恒星が重力により集まった円盤状の天体であると推論。さらに太陽系は星雲から生成されたと論証した(カント‐ラプラスの星雲説)。
1755年 ケーニヒスベルク大学哲学部の私講師として採用される。論理学、数学、物理学、形而上学を講義。私講師就職論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』が出版される。
1756年(32歳) 『物理的単子論』をあらわす。公開討議の第1回目の素材となる。これにより教授資格を獲得。(就任したわけではない)
1758年(34歳) ケーニヒスベルクがロシア軍によって占領される(62年まで)。
1762年(38歳) 『神の現存在の論証の唯一可能な証明根拠』を出版。初めて学界の注目をひくが、ウィーンでは禁書扱いになる。
1762年 ルソーの『エミール』が出版される。カントはこの本から強い感銘を受けた。
1764年(40歳) ベルリン・アカデミーの懸賞論文に応募。『自然神学と道徳の諸原則の判明性』が次席に入る。
1764年 『美と崇高の感情に関する考察』を出版。大学側からの詩学教授職への就任要請を辞退する。
1766年(42歳) 『視霊者の夢(形而上学の夢によって解明された)』を出版。ライプニッツの形而上学を否定的に総括。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎない。この世界と別の世界を同時に往することはできない。それは理性の必然的な仮説である。」

「批判」期
1770年(46歳) ケーニヒスベルク大学哲学部論理学・形而上学の正教授に就任。前年よりエアランゲン大学、イェナ大学の招聘を受けたがいづれも辞退。
1770年 就任論文として『可感(感性)界と可想(知性)界の形式と原理』を発表。ルソーの肯定的な人間観に影響を受け、ふたつの領域での人間理性の働きを分析した。この論文の増補改訂の計画が、おその後の『純粋理性批判』の構想に発展した。
1772年(48歳) ポーランド分割にともない、ケーニヒスベルクがプロシアに返還される。その後7千人の軍を含め人口は6万人となり、ドイツ屈指の都市となる。
1776年(52歳) カント、哲学部の学部長に就任。教育学の講義を開講する。
1781年(57歳) 『純粋理性批判』第一版を出版。当初はバークリーの観念論と同一視された。
認識(経験)を感性と悟性(理解)に分け、認識できないものを理念(物自体)とした。悟性は現象の文字化されたもので、直観(時間軸)は失われている。
1783年(59歳) カント、『プロレゴーメナ』(形而上学は可能か)を出版。純粋理性批判にまつわる誤解を解くための解説本と言われる。ヒュームに影響を受けたが、不可知論ではないと強調。
1784年(60歳) 「世界市民的見地における一般史の理念」、「啓蒙とは何かという問いに対する回答」を発表。
1785年 『人倫の形而上学の基礎づけ』を発表。
1786年(62歳) ケーニヒスベルク大学学長に就任。ベルリン・アカデミーの会員に選ばれる。
1787年(63歳) 『純粋理性批判』第二版を出版。
1787年 「実践理性批判」が発表される。当初は『純粋理性批判』再版にあたっての付録として構想されていた。
物自体の秩序を「叡智界」とし、叡智界の因果性の法則を道徳として規定する。この法則に従うことで、「現象界」の純粋理性が実践的に実在化される。
1789年 フランス革命が勃発。その後革命の波及を警戒する政府の勅令により、出版物の検閲が厳しくなる。
1790年(66歳) 三批判最後の著作「判断力批判」が発表される。
判断力は「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」であり、美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種よりなるとされる。

後「批判」期
1791年(67歳) フィヒテが経済的支援を求める。カントは『あらゆる啓示の批判の試み』の出版先の紹介という形で援助する。
1793年 カント、既成宗教への批判をふくむ『単なる理性の限界内における宗教』をあらわす。プロイセン政府は出版を禁止。
1794年 勅書により、宗教に関して公に語ることを禁じられる。カントは「陛下の忠実な臣下として」勅令を甘受すると表明。
1795年(71歳) 『永遠平和のために』を発表。国家にとっての自然状態(戦争状態)を脱して恒久的な平和をもたらすことを訴える。
1797年 『人倫の形而上学』を発表。ロック的な社会契約説を展開する。
1799年(75歳) 「フィヒテの知識学に関する声明」を発表。
1802年(78歳) 認知症が進行。約40年間カントに仕えた召使のマルティン・ランペを解雇する。
1804年2月(80歳) カントが逝去。16日間かけて町中の市民がカントに別れを告げ、数千人以上が葬儀の列に参加した。