フリードリヒ・シェリング 年譜
2019.4.18 増補

(シェリングの資質はエンゲルスと非常に近い印象を受ける。シェリングは、エンゲルスが初期マルクスに対して果たしたのと似たような役割を、ヘーゲルに対して果たしたのではないだろうか)

1775年 シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling)、ヴュルテンベルク公国にルター派神学者の子として生まれる。
ヴュルテンベルク公国はシュツットガルトを中心とし、神聖ローマ帝国の一部をなす小国である。紆余曲折を経つつ第一次大戦終了まで存在した。
1790年 テュービンゲン神学校に入学。特例により15歳で入学し、5歳年上のヘーゲル、ヘルダーリンと同級・同寮となる。
彼らはルター派正統神学の牙城にいながらフランス革命に熱狂し、進歩と自由を渇望し、思想の道へ進んだ。彼らは新興のカント哲学に集中した。シェリングがとりわけ学んだのはフィヒテとスピノザであった。
1792年 シェリング、「悪の起源について」(修士論文)、『神話について』(1793)を著す。

1794年 フィヒテ、「全知識学の基礎」を発表。“物自体”も絶対的な自我によって生み出されると主張。

1794年 神学校を卒業。神職を選ばず、家庭教師をしながら著作に勤しむ。フィヒテの忠実な紹介者、支持者として頭角を現す。
雑誌に『哲学の諸形式の可能性』(1794年)、『自我について』(1795年)、『哲学的書簡』などの論文を発表。
1796年 ライプツィヒ大学に移り、3年にわたり自然学の講義を聴講する。自然哲学に傾倒する。「ぼくはスピノザ主義者になった」とヘーゲルに書き送る。

1797年 『イデーン』を発表。「有機体」概念を中核に、自然の哲学的把握と形而上学的根拠付けを行う。この頃から自然を自我にとっての障害と考えるフィヒテと意見が分かれるようになる。
生物学や化学、物理学の最新知見に刺激されたシェリングは、ライプニッツの理論を引き継ぎ、自然の全現象を動的な過程として把握しようと試みた。(Wikipedia)
フィヒテのように物自体を考察の外に置くと、物自体が発展しても意識はそれを認識できないことになる。シェリングは自然と精神がともに独自に発展すると考えた。
1798年 「世界霊について」を発表。ゲーテに認められる。
自然の目標を生命におき、自然の根源を世界霊(宇宙霊)であるとした。自然と精神との最高の統一形態が芸術であるとする。
1798年 イェーナ大学の助教授に就任する(23歳)。この時の哲学教授はフィヒテであり、無神論論争の最中であった。
すでにフィヒテとの見解の相違は明らかだった。フィヒテは自我と非我を対立物と捉え、自我が非我を乗り越え、取り込むことで絶対我に向かうと考えた。
しかし自然科学に触れる中でスピノザ・ライプニッツ主義者となっていたシェリングはそれでは納得出来ない。絶対我の向こうには、自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」がある。そして非我にも自我と同じように駆動力があると考えた。
1799年 フィヒテがイェーナ大学を辞職。シェリングは哲学の正教授となる。
1800年 シェリング、フィヒテを否定的に受け継ぐ形で『先験的(超越論的)観念論の体系』を発表。ヘーゲルらとの学的交流を基礎とし、絶対者の自己展開の叙述の学として「同一哲学」を提唱した。
自然と精神は絶対者の二つの現象である。主観と客観とは同一であり、自然と精神はその現れである。「自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である」
1800年 シェリング、ヘーゲルをイェーナ大学の私講師として推挙する。
1800年 ヘーゲル、『フィヒテ哲学とシェリング哲学の差異』を発表。シェリングはフィヒテ宛ての手紙で論文の発行を告げる。
1.存在は非存在の中に生成してくる。2.絶対者は当初より存在するが、理性の自己産出の中で形態を与えられ、一つの全体となる。3.絶対者はその中に分裂現象を生み出し、意識は全体性から分離する。4.生は無限の中の有限として現れる。
1801年 シェリング、「私の哲学体系の叙述」を発表。自我と自然との絶対的同一を主張。これをフィヒテが批判したことから関係決裂。フィヒテの転居を機に始まったシェリングとの文通が止まる。
自然哲学と超越論的哲学を併置するシェリングに対し、フィヒテは他我を原理的に哲学の対象とはみなさなかった。
1802年 シェリングとヘーゲル、共同で雑誌『哲学批判雑誌』を刊行。主に自然哲学を扱う。
1803年 保守派と対立したシェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去る。シェリングの転居をもって『哲学批判雑誌』は終刊。ヘーゲルとの協力関係も止まる。
1806年 シェリングは不倫相手と結婚し、いったんヴュルツブルクに移った後、ミュンヘンに移住。バイエルン科学アカデミー総裁に就任する(31歳)。
1807年 ヘーゲルの『精神現象学』が刊行される。シェリングの同一哲学が批判される。
シェリングは絶対者を直観によって把握する。ヘーゲルはその無媒介性を批判した。
1809年 ミュンヘンで「人間的自由の本質」を出版。人間的自由についての哲学的考察を発表。
人間の存在根拠たる神には「神のうちの自然」があり、神自身と対立している。自然は、自らを現そうとする神自身にとっての「根底」である。被造物の頂点である人間のなかには、対立は自由の可能性として再び現れる。
1813年 シェリングの妻カロリーネが病死(09年)。ゲーテの紹介で再婚する。
1813年 シェリング、「世界諸世代」を執筆。
1814年 フィヒテがチフスにて急死。ヘーゲルがベルリン大学の後継教授となる。
1820年 シェリング、ベルリンのエアランゲン大学哲学教授となる(45歳)エアランゲン大学にはフィヒテが05年から勤めていた。
1827年 シェリング、ミュンヘン大学創立に伴い哲学教授に就任。バイエルン王太子マクシミリアンの家庭教師を務める。バイエルン王国への貢献をもって貴族に叙せられる。
1831年 ヘーゲルが死亡。
1830年代 シェリング、「積極哲学」を提唱。
消極哲学は "das Was"「あるものがなんであるか」にのみかかわっており、"das Dass"「あるとはどのような事態であるか」について答えていないとする。(ウィキ)
1841年 ベルリン大学哲学教授に就任(66歳)。4年間在職。
ヘーゲル左派の急進的思想に対する防壁となることを期待されたという。
就任講義には、エンゲルス、バクーニン、ブルクハルト、キルケゴールなどの錚々たるメンバーが聴講した。しかしその後の講義は閑散としていたと言う。
1845年 ベルリン大学教授職を辞任。以後公式活動を退く。

1854年 スイスの療養先で死亡。