1762年5月19日 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)、ドレスデン近郊の農家に生まれる。貧困のため修学できず。
1780年 近郊の貴族の援助を受けイェナ大学神学部へと進学する。
1781年 ライプチヒ大学に転学
1788 パトロンの死により学資を失う(26歳)。友人の紹介でスイス・チューリヒで家庭教師の職を得る。この時カント哲学に興味を覚える。
1789年 フランス大革命が発生。フィヒテはこれを熱烈に支持する。
1790年 ライプチヒでカント哲学を個人教授
1791年7月 カントのいるケーニヒスベルクを訪ね、講義を受ける。7月半ばから8月半ばまで、『あらゆる啓示の批判の試み』を執筆しカントに送る。
1792年 『あらゆる啓示の批判の試み』がカントの仲介で出版。実践理性批判を元に宗教概念を論じたもの。多くの人が著者をカントだとみなしたが、7月末にカントは著者がフィヒテであると公表した。
1793年6月 Berlin, Leibzig、Stuttgart, Tubingenを経てチューリヒに到着。
1793年 チューリッヒで『フランス革命に対する公衆の判断を是正するための寄与』、『思想の自由の返還要求』などを発表。この年、知人の娘ヨアンナ=ラーンと結婚。
1794年 イェーナ大学の助教授に就任。『全知識学の基礎』を発表。知識学を提唱。
意識を事物ではなく実践として措定。カント哲学に能動的性格を与える。「自我は根源的に端的に自己自身の存在を措定する」ところから出発して、それが成立するための条件として自然の認識を演繹する。「知識学」というのはWissenschafts のことであり、「諸科学」と訳してもなんの問題もない。「諸知識」は一つの体系であるが、認識過程の諸結果でもある。
1797年 「知識学への第一序論」を著す。「ひとがいかなる哲学を選ぶかは,ひとがいかなる人間であるかによる」が有名。
哲学体系は観念論と独断論の二つだけである。観念論は経験を「自我」から説明する。「物」から説明するのは独断論である。しかし自我の自立性と物の自立性は両立し得ない。ゆえに独断を拒否する限り、我々は観念論に立たざるをえない。
ということで、現状容認の論理(唯物論)に対して、「否定の論理の積み上げ」というラディカルな理屈を持ち込む。
1798年 フィヒテ、知識学の各論となる『全知識学の基礎』を発表。  『学者の使命に関する講義』も発表される。
「普遍的な思考」は共同体が生み出す。この思考は、共同体を存在可能とする基底的な条件を考察する。普遍的思考は共同体を志向するが、共同体が思考の主体とはならず、あくまで諸個人の思考にとどまる。なぜなら共同体は、経験的には常に限定された所与に過ぎないからである。
1799年 「神的世界支配についての我々の信仰の根拠について」を発表。神概念のあり方をめぐり、無神論論争を引き起こす。無神論者のレッテルを貼られ、イエナを去った。
この間、フィヒテは「物自体の考え」を否定、カントが、物自体を認めて、世界を二元論として解釈することを強く批判する。(ただし彼は「カントは二元論みたいなことは言っていない」と主張している)
フィヒテは、二元論者は「物質から精神への、もしくは精神から物質への絶えざる移行、あるいは同じことだが、必然性から自由への絶えざる移行を前提とするような、こうした結合の可能性を証明しなければならない」とし、「自我の実践性」(事行)を理論的認識にまで広げた。これは現象学の漫画化だが、逆説的に弁証法の必然性を示唆しているともいえる。
1799年7月 ベルリンに転居。
1800年 『人間の使命』などを著す。
1801年 「知識学の叙述」を発表。シェリングとの論争を受けて自我概念が後退。絶対知を出発点にして全経験を説明するようになる。ただし絶対者の存在を最初から前提することはせず。
決断を行うとされる個人が、ここでは本来的な知の担い手ではなくなっている。個人の自由もまた「普遍的自由」の内部でのみ成立する
1802年 シェリングとの関係を断絶。
1805年 ベルリンのエアランゲン大学教授に就任。
1806年 『現代の特質』を発表。「絶対者」から存在根拠を出発するようになる。この「神」は自由な道徳的主体の総体であり、「我々」(das Wir)を可能にする根拠となる。
1806年 ベルリンがナポレオン軍に占領され、10月18日ケーニヒスベルクへ避難。
1807年8月 フィヒテ、占領下のベルリンに戻る。12月に『ドイツ国民につぐ』を講演(1808年出版)
1810年 フィヒテ、新設されたベルリン大学の教授に就任。哲学部長に任命される。翌年には学長に就任する。
1813年 「知識学」を発表。「知識学が自己の存在証明をなしうるのは、知識学に帰依する人によってのみ」であるとする。
1814年1月 チフスにて急死。52歳。国内の救援に夫人がボランティア看護婦として参加しチフスに罹患。彼女を看護したフィヒテも感染した。
1814年 フィヒテの後にはヘーゲルがベルリン大学教授として招聘される。

フィヒテの思想はきわめて魅力的だ。彼はみずからを「観念論」と規定することによって、すべてのしがらみから解き放たれた。世界を中世の千年の眠りから解き放ったフランス革命とはなんだったろうか、まさに呪縛からの解放という精神の所業ではないか。
カントはフィヒテを得て、あたかも翼を得たように感じただろう。時間感覚、浮遊感覚こそがフィヒテのすべてだ。「精神一到、何事かならざらん!」というのが主観的観念論以外の何物であろうか。
フィヒテを考えるのに、偉くなってから(ベルリン時代)の哲学は必要ない。思想家としてはもはや抜け殻である。無神論論争の戦士としてのフィヒテが、我々には必要なのである。
カントの動かない世界に動力を与え、かくして必然性の克服の契機を与えたことである。
フィヒテの最大の貢献は、カントに弁証法を持ち込んだことにあるのであって、持ち込む際の乗り物が主観的観念論だったことは主要な問題ではない。
調和とか必然性というのはキリスト教の世界であり、絶対王政の世界でもあった。その必然性がバスチーユの襲撃に始まり音を立てて崩れつつあったのである。
そこではジャコバンが「必然性」をギロチンにかけていた。ギロチンというのは実に鮮やかな装置で、一瞬にしてルイ16世やマリー・アントワネットの首がコロコロと落ち、血しぶきが飛び散るのである。
これはまさに観念論の世界である。唯物論からこのような勢いは生まれないだろうと、たしかにそう思う。
「はだかの王様」をはだかと見切り、「王様ははだかだ」と叫ぶのは、決して唯物論的な行いではなく観念の転換なのだ。
これは良い観念論だ。
カントがフィヒテとシェリングに分かれ、それをヘーゲルが止揚して…などというのは最悪の観念論だ。
フィヒテ哲学の全体像を求めて -- 知識学の変転とその理由--入江幸男
という文章を参考にさせていただいた。これだけでも結構ごちそうさまだが、もっとすごい文章もある。ただそこまでやっていくと、肝心の時代性が見えなくなる。
私としては1789年のバスチーユをヨーイドンの出発点に、「自由・平等・博愛」の旗印、ジャコバンとダントンとギロチンの世界、そしてナポレオンの登場までのかけっこを見物するのが目的だ。
1790年代の10年間、カントもフィヒテもシェリングもヘーゲルも時代を並走している。さらに言えばゲーテもシラーもベートーベンもお互いの方を見ながら並走している。ドーバー海峡の向こうではアダム・スミスとベンサムとリカードウが走っている。すべてのヨーロッパ人が「想い」としてフランス革命に参加しているのだ。
そういう時代精神をまず受け止めることがだいじだ。
2007年6月30日 日本ディルタイ協会2007年関西研究大会
を参考にさせていただきました。