「キリスト教とローマ帝国」年表

キリスト教の歴史を勉強するうちに、いくつかのことがわかってきた。キリスト教は実態的にはユダヤ教を引き継ぎながら、その本質を否定するところに存在していること。
キリスト教はローマ帝国の弾圧を受けながら、実体的にはローマ帝国の宗教として発展してきたこと。したがって、ローマ帝国の「精神」を象徴していること。
ということで、ローマ帝国の盛衰史とキリスト教の確立過程を重ね合わせながら年表を作成できないだろうかと試して見た。
キリスト教の年表だからネットの世界も情報満載だ。しかし「世界宗教としてのキリスト教発展史」を初期キリスト教成立史と重ね合わそうとすると、意外に余分な情報が多く必要な情報が少ない。そもそもどういう情報を集めたら良いのかさえわからなくなってしまう。
ユダヤ教という一神教を生み出した風土、それが形式主義に堕し、貧困層からは否定されていく経過、イスラエルの地を取り囲む地政学的状況の変化、とりわけギリシャ・ローマ文明の進出、ディアスポラ経済との兼ね合いなどがキリスト教を生み出した諸要因として分析されるべきだろう。
さらにそれが一小民族の民族信仰からユニバーサルな宗教となっていく上での客観的な条件、「共通」の言葉に裏付けられた「共通」な文化の共有とその特質。それが被抑圧階級の進行から支配階級にまで取り込まれていった理由、ローマ帝国が産んだ宗教でありながら、封建世界にも受容可能な形態に変貌し受け継がれていった理由、あまりにも多くの要素がある。

なお西暦に就いてであるが、これは、イエス・キリストが生まれた年の翌年を紀元1年としている。だから誕生日は0年12月ということになる。ただし17世紀以来の申し合わせで紀元0年は置かないことになっており、紀元1年の前の年は紀元前1年である。
西暦は紀元6世紀ころからローマ暦に代わり使われ始めた。現在ではキリストの生年は、紀元6世紀に考えられたより遡ると言われており、紀元前4年と推定されている。

紀元前1世紀
カルタゴ、アレクサンドリアのユダヤ人(ディアスポラ)のユダヤ教への改宗が進む。旧ギリシャ植民地のユダヤ人はギリシャ語を用いたため、ヘレニストと呼ばれる。
63 共和政ローマの将軍のポンペイウスがエルサレムに入城する。ユダヤ地方(イスラエルまたはパレスチナともいう)はローマの支配下に入る。
44 ローマ皇帝カエサルの暗殺
43 ヘロデ、ハスモン朝ユダヤ王国を打倒。カエサルとの協調関係を背景にガラリアの知事に就任
37 ヘロデ、いったん失脚するも、ローマ軍の支援を受け権力を掌握。
34 ヘロデ大王、ローマからユダヤ人の王に任命される。その後政敵を次々と処刑、独裁権力を打ち立てる。
29 オクタビアヌス、アウグストゥスの称号を受けローマ初代皇帝となる。帝政ローマが始まる。
4 ヘロデ大王没。息子のヘロデ・アルケラオスが後継となるが、失政が続き解任される。
4頃 イエスがベツレヘムに降誕する。

紀元1世紀
18 カイファ(カヤパ)大祭司となる(~36年)
26 ポンテオ・ピラトがユダヤ総督となる(~36年)
27 この頃、洗礼者ヨハネが活動を開始する。

キリスト時代のパレスチナ
28 ナザレのイエスはヨハネより洗礼を受け、「良き訪れ」と呼ぶ宣教活動を開始する。ヨハネはまもなく捕らえられ首を切られる。
イエスが布教を開始したのは北部ガラリア地方のナザレだった。ベツレヘムを生地とするのはダビデにちなんだ創作と言われる。なおイエス死後の教団の活動はエルサレムである。
30 イエスがエルサレムのゴルゴタの丘で磔刑になった。以後の記載はルカの使徒言行録による。使徒言行録については後ほど説明。
イエス・キリストの死後、弟子たちはエルサレム教会に結集して信仰を続けた。彼らは後にナザレ派、原始エルサレム教会と呼ばれることになる。初期指導者はペトロとヨハネだった。彼らはイエスの人格的印象、「復活」の立会体験、説かれた数々の言葉を共有するグループを形成した。彼を「神の子」として崇拝し再臨を祈る礼拝がおこなわれた。
32 ヘレニストの幹部ステファノ、サマリアやシリア伝道を展開する中で「神殿偏重」のユダヤ教を批判。ユダヤ議会より異端と指弾され、石打ちの刑で殺される。キリスト教の最初の殉教者となる。弾圧を逃れた信者は共同体をサマリヤ諸地方に拡散。
ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方(救い主)です。クリストスはメシアを示すギリシャ語。イエスもヨシュアのギリシャ語読み。
イエスが布教を開始したのは北部ガラリア地方のナザレだった。ベツレヘムを生地とするのはダビデにちなんだ創作と言われる。
33 聖人パウロの登場。キリスト教の迫害者だったがイエスの幻を見て回心する。その後ローマ帝国内各地で布教活動を行い、多くの書物(書簡)を残す。
パウロはヘブライ語で「サウロ」。ギリシャ読みするとパウロとなる。十二使徒には含められないが、正教会ではパウロを首座使徒と尊称する。
もともとファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビに学んだ。ギリシャ語にも堪能で、生まれつきのローマ市民権保持者でもあった。
キリスト教が登場すると、当初はユダヤ議会のメンバーとして弾圧する側に回った。ダマスクへの旅の途中で「回心」した。
33 ペンテコステの日。小アジアなどのディアスポラ3,000人がエルサレムに集まり,洗礼を受ける。

35 バルナバ、ステファノの活動を引き継ぎ、サウロとともにアンチオケでの布教活動を展開。
バルナバはもとヨゼフという名前。バルナバは雄弁家という意味のあだ名だとされる。
キプロ島生まれで、エルサレムに参詣した際、イエスの説教を聞き、農園を売って共同体に加わった。12使徒ではない。
回心したサウロがダマスクからエルサレムに来たとき、バルナバのみが彼を受け入れた。サウロとともにアンチオケでの布教活動を展開。
40 バルナバとサウロ、いったんエルサレムに戻ったあと、ふたたびサウロとともにキプロス・小アジア伝道の旅に出る。(第一回の伝道旅行)サウロは通称をパウロとギリシャ風に改める。このとき従弟ヨハネ・マルコも行をともにする。
第一世紀の地中海世界とパウロの伝道旅行程 より小アジア東部
小アジア東部(画面上を左クリックすれば拡大)
小アジア西部
エーゲ海地域(画面上を左クリックすれば拡大)
44 ユダヤの地を支配したヘロデ王が死去。ローマ帝国の直轄統治となる。
47 エルサレム使徒会議。ペトロに代わりヤコブが教団指導者となる。ヤコブはイエスの兄弟で義人ヤコブと呼ばれた。この会議で異邦人への宣教が公式に認められる(割礼を入信の条件としない)。
ヤコブはイエスの死後に母マリアらとともに入信しており、12使徒ではない。
48 第1回伝道後にバルナバとサウロに方法をめぐり意見の違いが表面化。エルサレム公会議に列席し教皇ペトロの意見を仰ぐ。両者は別行動を取ることとなる。バルナバはヨハネ・マルコと共にキプロ島に赴き、遂にその地に留まる。
49 パウロの2度目の宣教旅行は3年に及ぶ。小アジアのルステラから陸路を取り北西部のトロアスに向かう。
49 皇帝クラウディス、ユダヤ人とキリスト教徒をローマから追放。
50年頃 パウロがピリピ(ギリシャ北部、マケドニア地域)に渡る。途上でコリント人への第1・第2の手紙が書かれる。
53 パウロはいったんギリシャからエルサレムに戻ったあと、「ユダヤ人もギリシャ人も,アジア地区に住むすべての者」をキリスト教化するとし、ただちに3度目の宣教旅行に出る。アンテオケから海路小アジアに入りエフェソスに3年間とどまる。
エフェソスにはアントニウスとクレオパトラが滞在したことがある。
また聖母マリアはエフェソスで使徒ヨハネとともに余生を送ったとされる。これについてはヨハネのところに記載する。
当時のエフェソスは女神アルテミスに捧げられた都市として知られ、土産物(ミニチュアのアルテミス像など)を製作販売する職人たちが多く住んでいた
偶像を否定するパウロは町を逐われエルサレムへと向かった。
54 この頃、バルナバの伝道に従った従兄弟マルコが、マルコ書を書く。最初の福音書と言われる。バルナバの経験が元になっているが、マルコの各方面からの聞き取りも加わっているとされる。
54年 ネロがローマ皇帝に即位。
57 エルサレムに戻ったパウロ、ユダヤ人に訴えられて逮捕される。ローマ市民であるとして皇帝に上訴する。
59  パウロはマルタ島を経由してローマへ護送される。以降ローマで数年を過ごし旺盛な著作活動を展開。
書簡はたくさんあるが、真書として新約聖書におさめられいるのが『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一1と2』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一1』『フィレモンへの手紙』の7篇である。
60 ユダヤ戦争が始まる。発端はユダヤ教神殿の管理をめぐる紛争。ユダヤ急進派がローマ守備隊全員を虐殺する。ローマ軍はエルサレム撤退中にユダヤ軍に惨敗する。
60頃 ルカによる福音書が書かれる。ルカはギリシャ人医師でパウロの第2次宣教旅行,及びに同行した。ルカ伝のギリシア語は極めて美しいもので、且つ語彙も豊かである。パウロの業績以外の内容はマルコ伝の転載が多い。ただしエルサレム滞在時に独自の取材も行っていると言われる。
60 マタイによる福音書もこのころ成立。
マタイは十二使徒の1人。収税人であったがイエスの求めに応じ使徒となる。第一福音書は伝統的にマタイによるものとされているが、今日では複数の文書の複合説が有力である。マルコ書の趣旨に加え、イエスにおいて旧約聖書の預言が成就していることを示すことを目的とする。
61 エルサレムのキリスト教会を指導していたイエスの兄弟ヤコブが殉教する。ヤコブは小ヤコブとも呼ばれ、ユダヤ教共同体でも高く尊敬されていた。このあと“キリスト教本家”筋のエルサレム教団は衰微する。
62 ユダヤ戦争が敗北。エルサレムの陥落から逃れたファリサイ派は、エルサレム西部の町ヤブネ(ヤムニア)にユダヤ教の研究学校を設けテクスト研究を行った。キリスト教と不仲のファリサイ派が主流となったため、ユダヤ教と「キリスト教」への分派が進む。
62 使徒ペテロの名で、小アジアのほぼ全域の人々にあてた手紙が作成される。宛先はパウロの布教したのより広範な地域に及んでいる。
63 ルカ、ルカ伝に続き使徒行伝(使徒言行録)を書く
64 ローマの大火。これを理由として皇帝ネロがキリスト教徒を迫害する。
64頃 カトリック教会ローマ司教ペトロ(ペテロ)の殉教
ペトロはなぜペテロなのか。
Wikiでは「ヘブライ語: שִׁמְעוֹן בַּר־יוֹנָה , Šimʿon bar-Yônā, 古典ギリシア語: Πέτρος, Pétros, 古典ラテン語: Petrus」となっており、ペテロになるいわれはどう見てもなさそうだ。
本名はシモン。ユダヤ人社会では「ケファ」(岩)というあだ名で呼ばれており、岩のギリシャ語読みがペトロということらしい。
ガリラヤ湖で漁をしていて、イエスに声をかけられ、最初の弟子になった。キリストの死後は教団の最高指導者として組織を取りまとめた。
古いのが取り柄の高弟というのがペトロだが、『ペトロ行伝』ではローマへ宣教し、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされ、「クォ・ヴァディス」のセリフ一発で後世に名を残すことになった。
『ペトロの手紙一』と『ペトロの手紙二』を残しているが、真偽については議論が残るようだ。
サン・ピエトロの地下で発見された「遺骨」が、教皇フランシスコにより公開を許可されたことが話題となった。
66 ユダヤ地方のユダヤ人達がローマ帝国に反旗を翻し、第1次ユダヤ戦争が起る。
67 ユダ(イエスの弟)がユダ書を著す。
70 ローマ軍がエルサレムを陥落させ、ユダヤ教のエルサレム神殿が廃墟となる。エルサレム共同体も解体される。市民の犠牲者が100万人に及んだとされる。
70年 エルサレムを中心としていたユダヤ人キリスト者共同体が離散。中心が小アジアのアンテオケの方へ移る。
73年 マサダ要塞の陥落
70年代 ヨハネを除く福音書(マタイ、マルコ、ルカ)が成立。共観福音書と呼ばれる。
80年頃 ルカの福音書の後編として「使徒言行録」が成立。エルサレム(1章 - 5章)、ユダヤとサマリア(6章 - 9章)、全世界(10章 - 28章)という展開で語られる。また12章まではペトロが、13章以降ではパウロが中心に描かれる。
90年 ユダヤ教徒(ファリサイ派)がヤムニア会議で旧約聖書正典を決定。
90年代 動揺するユダヤ人キリスト教徒にあてられたとされる「ヘブライ人への手紙」(ヘブル書)もこの頃作成されたと言われる。
95年頃 ローマ皇帝ドミティアーヌスによるキリスト教迫害。エフェソスの司教だった使徒ヨハネがパトモス島に幽閉される。幽囚中に黙示録を著したとされる。
ヨハネは兄のヤコブとともにガリラヤ湖で漁師をしていてイエスの誘いを受けた。イエスの処刑時もただ一人弟子としてつきそい、12使徒の中でペトロに次ぐNo.2の地位を占める。
ヨハネは、イエスの母マリアを後見しエフェソスに移り住んだ。パウロがエフェソスを追われたのよりあとの話、おそらくエルサレムの破壊に絡む亡命であろう。相当無理のある計算だが、マリアが75ないし80歳、ヨハネが50歳とすれば、ギリギリ年は合う。95年にはマリアはすでに死去、ヨハネは85歳だ。福音書を著したのはパトモス島から釈放された後、弟子プロクロスに口述したとされる。
100年頃 教会生活を規定した指導書「12使徒の教訓」(ディダケー) が定められる。長老、監督制の展開

紀元2世紀
130 バル・コクバによって率いられた第2次ユダヤ戦争が始まる。5年にわたる戦闘の末、敗北に終わる。
135 第2次ユダヤ戦争が終結。ローマ軍によってエルサレムは廃墟とされる。皇帝ハドリアヌスはユダヤ教の絶滅を図る。ユダヤの地はパレスチナと改称される。
135年頃 グノーシス主義が盛んになる。
在来信仰や哲学(新プラトン主義)と習俗したキリスト教の一派。物質と霊の二元論を共通の特徴とする(らしい)。
140年頃 マルキオン、ローマで活動
144年 マルキオンがキリスト教会から破門される。
160年頃 ユスティノスが『トリュフォンとの対話』(ギリシア語でユダヤ人向けに書かれたキリスト教弁証書)を記す。ユスティノスは間もなくローマで殉教
185年頃 ゲルマニアにキリスト教が入る。
197年 テルトゥリアヌスがローマ帝国の迫害に対して法的な観点からキリスト教を弁護した『護教論(「弁証書」)』を記す。
200年頃 エデッサが東シリアのキリスト教の中心地となる。
200 ヘブル書と黙示録を除く「新約聖書」が教会で用いられるようになる。それまでを「原始キリスト教」、それ以降を「初期キリスト教」として区分する。
モルモン教やエホバの証人は原始キリスト教を現代に復興したと称している。
紀元3世紀
3世紀初 ローマのカタコンベ(地下墓地)にキリスト教壁画登場
202年 アレクサンドリアのクレメンスがキリスト教の哲学に対する関係を扱った『ストロマテイス』を記す。
204年 新プラトン主義の創始者プロティノスがエジプトで生まれる。
220年頃 キリスト教がペルシャ、アラビアに浸透
230年頃 オリゲネスが「キリスト教最初の教義学」と言われる『諸原理について』を記す。
250年 ローマ皇帝デキウス、最初の全国的規模のキリスト教大迫害。「皇帝崇拝」を強要。
250年以後 西ゴート族のキリスト教化始まる。
258年 カルタゴの主教キプリアヌス殉教。「神が唯一でありキリストが一人であるように、教会は一つである」と教会ヒエラルキーを強調。
284年 ディオクレティアヌスが皇帝に即位。強力な弾圧政策を再開。
293 ローマ帝国、四分割される(テトラルキア)。
まず東と西に二分割され、それぞれに正副の皇帝が置かれる。副皇帝もそれなりの力を持ち、山口組の若頭みたいな位置づけ。言うことを聞くだけの副ではない。

紀元4世紀
301 アルメニア王国がキリスト教を国教とする。当時のアルメニアはローマ帝国の従属国だが、国家の国教としては世界初。
303 東皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教禁圧令を出す。
305年、東西の正帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスが揃って退位する。西ではコンスタンティウス・クロルス副皇帝が正帝位を引き継いだ。
306年7月 クロルスはカレドニア(現在のスコットランド)のピクト人に対する遠征の途中で病を発し死去。西方正帝には副帝セウェルスが昇格。コンスタンティウスの子コンスタンティヌス1世が副帝となる。コンスタンティヌスは副帝として支配地ガリアなどの再編強化に当たった。
これから先の記述はキリスト教にとってはほとんどどうでも良いことだが、興味本位でコンスタンティヌスの足跡を探ることにする。
306 この頃、コーモンのアントニウスがエジプトで隠修士を集め、キリスト教最初の修道院を始める。
312 コンスタンティヌス、正帝に反逆。十字架を旗印にしてアルプスを超えイタリア北部に侵入。ミルヴィウス橋(ローマ近郊)の戦いに勝利する。これにより西ローマ帝国の正帝コンスタンティヌス1世となった。
313 ミラノでコンスタンティヌスとリキニウスの両皇帝が会談。連名でミラノ勅令を発する。キリスト教を含む全ての宗教を公認した。
318 父と子の同一性を認めるアタナシウス派と、これを認めないアリウス派の間で論争が起る。
320 リキニウス東方帝、ミラノ勅令を破り、キリスト教徒を迫害。これを非とするコンスタンティヌスが対決。
324 リキニウス東方帝を破ったコンスタンティヌスが、統一ローマ帝国の皇帝に即位。
325 コンスタンティヌス1世によって第1回ニカイア公会議が開かれ、ニカイア信条成立。「父と子の同一性」を主張するアタナシウス派が勝利。アリウス派が異端とされる。
アレクサンドリア教会のアリウスが、「神の子は神にあらず」と主張。これに対し若手のアタナシウスが「神の子は神」と主張。ついでに聖霊も加えて「三位一体」を主張した。部外者から見れば「どちらもあり」だが…
コンスタンティヌスは論争に決着を付けたが、判断の基準はそれぞれの支持者の数だったという(ウィキ)
327 グルジアがキリスト教を国教とする(グルジア正教会)。
330 ローマからビュザンティオンに遷都し、ノウァ・ローマと改称。ビザンティウムはギリシア人の植民都市ビュザンティオンから出発。帝国東方の交易都市として発展した。
ローマは帝国の首都でなくなったため、旧西ローマ帝国における権威をローマ教会が握るようになる。
330 ローマの聖ピエトロ(ペトロ)大聖堂、ビザンチンの聖ソフィア大聖堂が建立される。法律によって日曜日が休日と定められ、クリスマスは国家の祝日となる。
337年 コンスタンティヌス皇帝、サーサーン朝ペルシア討伐の軍を挙げたが、軍旅中に病に倒れる。
350頃 エチオピアがキリスト教を国教とする(コプト教・エチオピア正教会)。
361 皇帝ユリアヌスがローマ古来の宗教の復活を企てる。「背教者ユリアヌス」と呼ばれる。
375 ゲルマン民族の大移動が開始される
381 第1コンスタンティノポリス公会議(第2回世界教会総会議)が開かれ、ニカイア公会議を補則する。