どうも連帯運動に携わる人間からすると、この連帯保証という言葉が気になる。
連帯という言葉はフランスの言葉であって、ドイツにはそのような概念はないだろうと思う。とすればこの言葉はおそらくボアソナードが編纂した旧民法に起源を持つのではないだろうか。
そう思ってネットで色々探してみたけれども、それらしい文章が見つからない。
かろうじて下の文章を見つけた。答えにはなっていないのと、文章がさっぱりわからないのとを承知の上で、抜書きしてみた。

加賀山茂著 『現代民法担保法』(信山社、 2009年)
を松岡久和さんという人が紹介した文章で「民法学のあゆみ」という雑誌の連載の一つらしい。

現行民法はボアソナード旧民法をパンデクテン式に再編したもので、立法上の問題点はポアソナード
民法を改変したところに集中的に生じている。それゆえ、優れた旧民法債権担保編を参照し再認識する
必要がある。
…そもそも、「担保物権」という法令用語はなく、民法は「他の債権者に先立つて自己の債権の弁済を受ける権利を有する」と共通して優先弁済権のみを規定している。
…要するに担保物権という物権は存在せず、担保物権の効力とは、債権の効力の一環として認められて
いる掴取力を民法自体が拡張しているものにすぎない。
…本書は、保証の債務性の否定と担保物権の物権性の否定とによって、債権の掴取カの量的・質的強化という共通項で優先弁済援を統合して理解し、この結合に理論的な支柱を提供する。
…債権者は保証人に債務者の債務を肩代わりして履行するように請求できるが、それは、他人の債務を履行することを請求できるだけで、保証人が負担するのは、別個独立の債務ではなく、あくまで「債務なき責任」である、
…フランスの破産法では債務者が破産し破産免責を受けても保証人の求償権だけは免責されない。そのような規律であれば論理的に問題がないが、わが国の通説は、債務者は求償債務を含めて全責任を免れるのに対して、保証人だけが付従性の利益を受けずに責任を負うとする。
…これでは、付従性のある債務だと,思って契約した保証人の責任を破産法が勝手に独立担保契約に変更することになり、民法に反する。

解説もないので、なんとも心もとない読解になるが
破産法という法律に債務者の義務が書かれていて連帯保証も含まれるらしい。
ここでは債務者の債務を保証人が肩代わりする際に、担保物権の物権性にすり替えられるのは民法の精神に反していると言っているらしい。
何故かと言うと、民法典のうち破産法の基礎となる部分はボアソナード旧民法がかなり残っており、そこに「木に竹を接ぐ」ようにパンデクテン式再編が行われ、矛盾しているらしい。
だから「連帯保証」を声高に言いながら、フランス破産法とは全く異なる各論対応になっているらしいのである。
ただ紹介者の松岡さんは、加賀山さんの意見は決して法学界の主流ではないと強調しているので、いちおう「連帯」という言葉がなぜ民法に紛れ込んだのか、それが連帯の精神とはおよそ逆の方向で使われているのはなぜなのか、そのあたりの参考までに…

ついでに民法の制定過程を年表で
1872年 司法卿江藤新平のもとで民法編纂事業が始まった。江藤は、フランス民法典を翻訳してそれを日本民法典として公布・施行しようとした。ジョルジュ・ブスケが来日し作業をすすめる。
1873年 ギュスターヴ・ボアソナードが来日し、明法寮等でフランス法学を講義した。治罪法(刑事訴訟法典)・旧刑法を起草し、拷問の廃止に尽力した。
当初司法省に雇われたが、その実力が知られると正院法制局、外務省、元老院、陸軍省などからも顧問として用いられた
1876 年 ブスケ、民法仮法則 全94条を作成し帰国。
1878年 大木喬任司法卿、箕作麟祥・牟田口通照に民法典の編纂を進めさせる。フランス民法典を直訳移植したもの。
1880年(明治13年) 大木、民法編纂総裁となりボアソナードを中心とする民法典編纂が開始される。
ボアソナードは、フランス民法を中心として、オランダ民法、イタリア民法などを参考にして、10 年の歳月をかけて日本民法を起草した。
1880 年 2 月 梅謙次郎、東京外国語学校仏語科を首席で卒業。司法省法学校第 2期生に補欠入学。
1885 年 12 月 梅謙次郎、文部省留学生としてフランス・リヨン大学に留学。ボアソナード民法(旧民法)草案を批判的に検討したとされる。
1886 年(明治 19 年)4 月 兄錦之丞、民間に一大病院を作ると計画していた矢先に病死。後には莫大な借金が残り、それはすべて弟謙次郎の身に降りかかってきた。この借金の返済に梅は十数年苦しむ。
1889 年(明治 22 年)7 月 梅謙次郎、首席で博士号を取得した。それからベルリン大学に移る。
1890 年 4 月 ボアソナードの手になる民法が公布された。これを「旧民法」という。1893 年 1 月の施行が予定される。
8 月 梅謙次郎、命を受け帰国。帝国大学大学法科大学教授に任命される。
10月 人事編と財産取得編第 13 章以下が公布。ボアソナードの指導を受け日本人スタッフが起草。
1891 年 梅、大学教授の傍ら農商務省参事官など行政職を併任。
1892 年 民法典論争が巻き起こる。延期派が提起した民法商法施行延期法律案が可決。
旧民法はヨーロッパ的個人主義を旨とし、日本の醇風美俗たる家制度を破壊するとの批判。梅らは断行を主張。
1893 年 
3 月 法典調査会が組織され、そのもとで修正作業がスタート。スタッフは穂積、富井、梅の3名。
9 月29 日逐条審議が始まる。
1895年(明治28年) ボアソナードは民法典の挫折に失望して帰国
1896年 旧民法修正案が第 9 回帝国議会で可決され、同年に公布された。
ドイツ民法典第一草案に倣い、法典全体の体系性を重んじ個別規定に先立って「総則」を置く「パンデクテン方式」をとる。しかし内容は旧民法典からのフランス法の影響が大きい。
1898年7月 「明治民法」全5編が施行される
1899年(明治 32 年) 梅らによリ商法がまとめられる。
1910 年 8 月 25 日 梅、ソウルで法整備作業中に腸チフスとなり死亡。享年 50 歳。