1.「家族はつらいよ1」と熟年離婚
「家族はつらいよ2」 というのがあるのだ。
シリーズの1作目は正直、ちょっとつらかった。
きざったらしい言い方になるが、世相を切り取っていることはいるのだが、すくい取ってはいない。
団塊の世代のハシリとして抱えている問題、すなわち「熟年離婚」はそのまま提示されているのだが、山田監督の言いたいのは「そのまま直視せよ」ということなのだろうか。
そのままの姿としての「熟年離婚」は、現代日本における男性のエゴがいかにひどいかという問題でしかない。しかし私たちはそれを女性史的にも見ておく必要がある。
団塊の世代を通じて女性の権利にかかわる問題はずいぶん前進した。しかしまだ問題はたくさん残っている。それを「熟年離婚」の問題として突き出すのはいい。
しかし映画であるなら、もう少し問題解決型のスタイルで提示すべきではないだろうか。「麦秋」の原節子は、あのころの問題をあのころにふさわしい解決法で提示している。
2.「救いようのないジジイ」からの脱出
ということで、「家族はつらいよ1」はちょっと辛かった。橋爪功というじいさんの頑固ぶり、夜郎自大ぶりが、同世代としてあまりにも救いようがないからである。
率直に言えば、今の日本、若い人より我々のほうがはるかに進歩的で主体的で民主的だ。ただの頑固爺として描かれるような筋合いはない。
ただ、具体的な生活の現場で若い人たちが作り出す細やかな人情の世界を我々が見知って感動してきたかという点では、もっと反省すべきなのかもしれない。「知りもしないで戦後民主主義という型紙で若者を裁断しないでもらいたい」というメッセージであれば、もっと謙虚に我々は聞くべきではないのか。
それが第2作目になってようやく、キャラクターの住み分けが見えてきた。橋爪功のキャラはまだ練り上げられたとはいえないが、わが身の一部として共感できるようにはなりつつある。
これが共有できるようになると、もう一つの寅さんが出来上がっていくのかもしれない。
3.山田洋次の「団塊の世代」観
話がややこしくなってきた。結局「家族は辛いよ」という映画、シリーズは山田洋次監督の仕掛けた「団塊の世代」論なのだ。もちろん山田洋次は団塊世代ではない。戦後第一世代だ。そして寅さんは第2世代で、ここまでが山田洋次監督が共感できる世代だ。
そして戦後第三世代たる団塊世代に対しては、おそらく山田監督はずっと「いやな感じ」をいだきながら生きてきたのだろうと思う。
それが1作目から2作目に至る過程で結構浄化されている。寅さんに共通性を感じたように、このどうしようもない団塊の世代「若き老人たち」にもヒューマンとしての共通性を紡ぎ出そうとしている。
この柔らかさこそ私達が山田洋次監督から汲み取るものなのであろう。
この話は、一度真面目にやるべきものだろう。