藤原 不比等と藤原家の再興

別にここまでやる必要はないかと思ったが、壬申の乱以前の大海人の動きがほとんど記録されておらず、それをもって大したことのない人物だという評価もあるようなので、少し調べておきたい。
そのためには、中大兄、大海人とトロイカ体制で「大化の改新」を推進した中臣が、壬申の乱直前、天智の死の前後にどう動いたかを知っておくべきだろうと思う。
それは客観的には鎌足から不比等にかけて藤原家がどう動いたかでうかがい知ることができるだろう、という「風が吹けば桶屋が儲かる」的論理にもとづく。


614 鎌足が生誕。

鎌足の系譜に触れておく。
南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。
密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、初めは軽皇子に近づき、後に中大兄皇子に接近した。また、蘇我一族内の蘇我倉山田石川麻呂(反入鹿)を味方に引き入れた。乙巳の変後は中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂を切った。

659 不比等、鎌足の次男として生誕。この時鎌足はすでに45歳。

鎌足は男性不妊? 息子は2人しかおらず、長男定恵は乙巳の変の前年644年生まれで15歳の差がある。娘は4人いるが、例えば五百重娘という人物は天武天皇夫人、後に不比等の妻というから、流石に実の娘とは思えない。ということで「不比等御落胤説」も根強い。

670 鎌足が死去。死の直前に天智天皇が見舞う。大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去した。

671 壬申の乱。中臣(藤原)氏は天智派とみなされ、朝廷の中枢から一掃される。

673 大海人が天武天皇として即位。飛鳥浄御原宮を都とする。

673 不比等、大舎人の登用制度によって出仕。反天武派出身者として下級官人からの出発を余儀なくされた

681 草壁皇子が大津皇子を抑え、皇太子となる。

686 天武が崩御。草壁が事実上の執政となる。大津皇子は処刑される。

689 不比等の名が日本書紀に初出。この時すでに30歳。草壁皇子に仕え、出世したとみられる。

689 草壁皇子が死去(27歳)

697 草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)の擁立に功績をしめす。娘の藤原宮子が文武天皇の夫人となる。

698 藤原の称号が不比等の子孫のみに限定して使用されることとなる。これ以外の中臣系は元の姓である中臣朝臣姓にもどされ、政務への関与を禁止される。

720 不比等が死去。61歳。

それにしても、なんともつまらない話ばかりだ。なんだかんだと平和だったんですね。