我ながら7世紀の日本年表はよく整理されたものと思うが、その分、国内状況はかなり端折ってある。これに国内状況を書き込んでいくと、かえって分かりにくくなるだろう。

壬申の乱の経過表はちんまりとまとまってしまっていて、これを大化の改新まで広げると年表としてのまとまりが失われてしまう。

そこで、大化の改新から壬申の乱まで、すなわち中大兄時代を中大兄を中心に跡づける年表が必要だろうということになった。

ただしこの手の年表は既存のもので十分な気もする。そもそも、日本書紀くらいしが原資料はないのだから、あまり御大層なものにはしないで、自分の心覚えとして作成しておくことにする。



621 聖徳太子が死亡。それ以前から政治的影響力を失い、斑鳩に隠棲していたとされる。

626年 蘇我馬子が亡くなる。家督を継いだのが、蘇我蝦夷。

628年  推古天皇が没する。聖徳太子の息子である山背大兄が有力後継者となる。

蘇我蝦夷は山背大兄の有力パトロンである境部摩理勢を殺害し、舒明天皇(田村皇子)を即位させる。

630 犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を中心とした第1回の遣唐使が派遣される。
643 蘇我蝦夷は大臣の位を息子の入鹿へ譲渡。
643 蘇我入鹿、山背大兄王の一族を滅亡に追い込む。

644.1 法興寺の鞠の会で鎌足が中大兄に接近。みずから立案した入鹿暗殺計画を打ち明けたという。
644 中臣鎌足、蘇我入鹿打倒の工作を開始。まず皇極の実兄にあたる軽皇子に接近したと言われる。

645.6.12 「乙巳の変」が発生。蘇我倉山田石川麻呂を巻き込んだ中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を斬殺。中大兄がまっさきに切りかかったとされる。

6.13 中大兄の一隊が蘇我本家を襲撃。蘇我蝦夷を滅ぼす。

6.14 皇極天皇、中大兄への譲位を発議。鎌足の提言を容れた中大兄は即位を固辞し、軽皇子を推挙したという。(流石に血だらけの天皇は景色が悪い)

6.14 皇極天皇、古人大兄への皇位継承を打診。古人はただちに飛鳥寺に入り出家。即位の意志なきことを明らかにする。(古人の母は蘇我系)

6.14 皇極天皇、軽皇子へ譲位。軽皇子は孝徳天皇を名乗る。
9月 吉野にこもった古人大兄に謀反の疑い。中大兄は兵を派遣し誅す。
12月 孝徳天皇、難波長柄豊崎宮に遷都。難波京は空前の規模であったが、この時点で難波京は未完成だった。

646.1 難波京に遷都した孝徳天皇、「改新之詔」4か条を発する。

649.3 蘇我倉山田石川麻呂に謀反の疑い。石川麻呂は難波から脱出するが、飛鳥の山田寺で自害。石川麻呂は中大兄の岳父に当たり、乙巳の変を支持した。
650年 豊璋が難波京に人質(賓客)として滞在していた記録あり。

653 中大兄、難波を廃し倭京に戻るよう提言。孝徳はこれを認めず。中大兄は孝徳の皇后を含む一族を引き連れ飛鳥の行宮に転居。

654.10 孝徳天皇が難波宮で死去。

655.1 皇極上皇が重祚して斉明天皇となる。斉明天皇は飛鳥周辺で盛んに土木工事を行い、「狂心」(たぶれごころ)と噂されたという。

655 大和朝廷の命を受けた阿倍比羅夫が北方遠征。

658.11 有間皇子の「謀反」事件が発生。

660 百済、唐軍の攻撃を受け滅亡。百済軍の鬼室福信が百済再興を目指し反乱開始。倭国に援軍を要請。
661年
1月 斉明天皇と中大兄ら、難波を出航、筑紫に向かう。

7月 斉明天皇、筑紫の朝倉で薨去。中大兄による称制に入る。長津宮に入り海外の軍政を統括。(朝倉も長津も場所不明)

7月 唐の蘇定方将軍、高句麗の首都平壌に迫る。

662.5 百済の皇太子で人質となっていた豊璋が百済に戻る。長津宮に駐留中の中大兄は位階を与え、5千の軍、軍船170艘とともに百済に送る。豊璋は鬼室福信と合流し、百済王に推戴される。

663年
8月 白村江の戦い。百済・我々の連合軍が完敗。百済王豊章は船に乗り高麗へ逃げ去る。
9月 百済の州柔城は始めて唐 に降る。百済の名は今 日に絶える。 佐平の余自信・達率木素貴子・谷那晋首・憶禮福留ら、弓禮城に至り船を発し日本へ向か う。
663 白村江敗北の報を受けた中大兄、西日本各地に無数の山城を構築し、唐の来襲に備える。
664 豊璋の子善光、百済王を名乗り難波に居を構える。

665年
2月 天智の命にて、百済の百姓男女400人余を近江の神前郡に住まわせる。 

8月 百済亡命者の達率答体春初が城を長門国に築く。達率憶濃福留・達率四比福夫は筑紫国で大野及び橡の二城を築く。対馬や大宰府の水城(みずき)、防人の配備、長門・屋嶋・岡山など瀬戸内海各地の朝鮮式山城の造築が行われた。

不明月 唐の使節・劉徳高が来朝。服従を迫る。このとき劉に対応した鎌足は「大友皇子の天皇後継を願っており、姻戚関係を結びたい」と語ったとされる。劉徳高は大友皇子を高く評価したという
12月 劉徳高が帰国。
666年 是冬 、百済 の男女 二千餘 人が東国に移住。

667.3 中大兄、大津宮を造営。政治拠点を移す。旧百済官僚が大津に結集。

668.1 中大兄が即位。天智天皇を名乗る。

668 唐と新羅の連合軍、倭国を攻めず高句麗攻撃に回る。
669年

10月 中臣鎌足が逝去。中臣一族の中枢は藤原の姓を賜る。
669 佐平餘自信・佐平鬼室集斯等、男女七百餘人を以て近江国蒲生郡に遷す。

669 高句麗が滅びる。
670年

1月 佐平・鬼室福信の縁者である鬼室集斯は位を授けられ、近江国蒲生郡に封される。

豊璋王の弟・善光、百済王の称号を与えられ、朝廷に仕える。善光子孫の敬福は、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した。

670 唐が朝鮮半島全体の支配に乗り出す。新羅は高句麗の残党とむすび唐軍の駆逐に着手。
670 天智が遣唐使を送る。唐が倭国を討伐するとの風聞を確かめる為に、唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている
670 庚午年籍とよばれる大がかりな戸籍が完成する。

671年
1月 天智天皇が即位。(「大友皇子を太政大臣に任じる」とあるがこれがいつのことかはわからない)
9月 天智天皇が病に倒れる。
10月 天智、病に臥す。以て痛む こと甚だし。死を覚悟する。勅して大海皇子を喚び、「朕、疾甚だ し。後事を以て汝に属ける」

大海人は「請う、皇位を奉じて大后に付属せしめよ。大友王をして諸政を奉宣せしめよ。臣は天皇のために出家して修道せむ」と応える。天皇、これを許して袈裟を送る。

10月 大海人は武装解除の上、僅かな手勢とともに吉野に移る。
東宮、即吉野に入る。或る人の曰く、「虎に翼を着けて放すな り」 
11月 対馬国司、筑紫の太宰府に唐の使者、郭務棕からの伝言を伝える。郭務棕は47隻の船で600人を率い対馬に到着。白村江の倭軍捕虜1400名を返還すると伝えてきた。(669年にも同様の記載があるが、重複か)

12月 天智、近江宮の近隣山科において崩御。享年46歳。大友皇子(24歳)が執政となる。「太子は天性明悟、博く古を雅愛する」と評価される(懐風藻)

672年
3月 近江政権、筑紫にて待機中の郭務棕に天智の崩御を報せる。
5月末 郭務棕が筑紫を離れ朝鮮半島にもどる.大和王朝側から甲冑や弓矢、布、綿などが贈られたという。

壬申の乱
結局分けるのが面倒なので、一つにしてしまいました。それでも正味30年です。この時間を生き抜いたのは大海人ただ一人です。いかにこの時間が濃密だったのかがわかります。

672年
6月中旬 朝廷が大海人の征討作戦を準備中との情報が吉野に入る。
①近江朝廷は美濃・尾張の国司に 「山陵 (天智天皇の墓)を造るために人を集めよ」と言い、集まった人々に兵器を持たせている。②大津京から飛鳥にかけて朝廷の見張りが置かれ,さらに吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする。
このあと天武は反乱を決意。高市皇子,大津皇子の大津京からの脱出を促す。東国に挙兵を呼びかける。東国(美濃,尾張,三河から甲斐,信濃)の兵を集める
6月22日 村国連男依ら3人の武将を美濃国の安人磨郡に急派。①安八磨郡(あはちまのこおり、大垣近郊)の兵を徴発すること、②「不破道」を閉塞することを命じる。
東国からの関門である不破の関の美濃側(安八磨郡)は天武の所領であった。おそらく天武はこの地理的条件にすべての戦略をかけたと思われる。
6月24日
6月24日深夜 大海人皇子は子の草壁皇子,忍壁皇子,鵜野讃良皇女(持統天皇)や数人の舎人らで20人ほど,そして侍女たち10数人を連れ吉野宮を出る。
6月24日 天武の部隊が伊賀国名張に入り隠駅家を焼く。兵を募る。名張郡司は近江政府の出兵命令を拒否するが、天武軍には加わらず。
6月24日 天武、伊賀に進む。ここで阿拝(あえ)郡司が兵約500で戦列に加わる。
6月24日 天武の長男、高市皇子(19歳)が近江脱出に成功し、甲賀を越えて伊賀を目指す。
6月25日
6月25日 天武の部隊、大和街道に入り積殖(つみえ、伊賀市柘植)で高市皇子と合流。加太(かぶと)峠を越え伊勢に入る(現在は伊賀も伊勢も三重県)。
6月25日 伊勢国司の三宅連石床(いしとこ)が天武軍に参加。500 の兵をもって山道を防ぎ、敵の追撃に備える。
6月26日
6月26日 飛鳥古京の高坂王が天武の謀反を大津京に伝える。朝廷は大混乱に陥る。
6月26日 大津朝廷が全国に動員令を発す。東国への使者は美濃軍に妨げれ動けず。筑紫は九州防衛を口実に命令を拒否。
6月26日 安八磨郡の多品治の率いる3千人が挙兵。不破の関を封鎖。通過を図った大友軍部隊が美濃軍に拘束される。
安八磨郡は大海人皇子の生計を支えるために設定された封戸であった。多品治はおおのほむじと読む。太安万侶の父にあたる。封戸を管理する湯沐令であった。
6月26日 天武軍、三重郡家→朝明(あさけ)郡を経て桑名郡家に着く。天武は桑名に本営を構えるが、高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。
6月26日 村国連男依が美濃郡部隊の司令官となる。高市皇子が到着し不破関の近くに前線本部を置く。東海や東山も軍を発す。
6月27日
6月27日 大海人皇子、高市皇子の要請を受け、不破に向かう。皇后、草壁皇子,忍壁皇子は桑名に残る。不破の近くの野上で、尾張氏の私邸を借りて行宮とする。
6月27日 高市皇子を総大将とする前線本部は和(わざみ)に置かれ、東国(美濃・尾張・三河・甲斐・信濃方面)からの兵数万が集結する。
尾張の国司小子部連(ちいさこべのむらじ)が2万を動員したことが特筆されているが、やや過大と思われる。
小子部連は「御陵造営」の名目で朝廷から動員されたのであろう。旧暦6月下旬といえば田植えを終え農家は多少暇になる。それが不破の関で足止めを喰らい、天武側に寝返ったものと思われる。
それにしても美濃の3千に比べ尾張2万は誇大である。戦後の処遇を見てもさほどの働きはしていないと思われる。天武側からすれば東海道、東山道が中立化できただけでも御の字であったろう。
6月30日 朝廷軍は山部王を大将,蘇我臣果安(はたやす),巨勢臣比等(ひと)を副将とし、犬上川(現彦根市)まで進出。先発隊が不破の北を迂回し、大海人軍第2軍の背後から攻撃する作戦。
6月30日 大海人軍の伊賀→大和方面軍が出発。軍長は多品治、将軍は紀阿閉麻呂(あへまろ)、三輪子首、置始菟(おきそめのうさぎ)ら。甲賀と伊賀を結ぶ倉歴(くらふ)道に進出。萩野(たらの)を確保し、鹿深(かふか)道から水口にも進出を図る。
この軍伊勢から積殖に入ったのだろうが、そこから大和街道へ向かわず大津に出ようとしている。倉歴道と鹿深道は同じ道。
大津京以前の東海道は、都があった飛鳥を出発し、伊賀名張から伊賀盆地を北上し、柘植を経て、東国へと向かっていた。これが柘植で分岐し鹿深(甲賀)を経て草津に出て東山道と合流し大津に向かうようになった。これが倉歴道(くらふのみち)である。この道は大津京の廃都とともに一旦廃れることになる。
7月1日 玉倉部(不破郡関ヶ原町玉)で最初の戦闘。大友側が奇襲を仕掛けたが撃退される。
7月2日 戦闘開始(日時が錯綜するのは、二次資料の不正確な引用のため)
7月2日 3~4万人からなる天武軍本隊が近江に向け進軍開始。指揮は高市皇子がとる。大津攻略を目指す近江方面軍で、その一部は琵琶湖北岸から西岸に回る。
7月2日 大伴一族が倭京(飛鳥)で挙兵。大伴吹負(ふけい)と大伴馬来田(まぐた)の兄弟を大将とする。その後大伴軍は京都都の県境・乃楽山(ならやま)まで進出し陣を構える。
7月2日 朝廷軍が犬上川に進出。不破攻撃を目指す。しかし戦闘をめぐり山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等ら将軍連が内紛。二人の副将が離反。
7月4日 
7月4日 大伴軍が乃楽山で大野君果安(はたやす)の率いる朝廷軍と激突。戦闘は膠着。別隊(坂本財隊)が生駒山系の高安城(たかやすのき)を確保。朝廷軍は米倉に火をつけて逃げる。
7月4日 大海人軍の伊賀→大和方面軍は結局、一部が大和街道確保のため伊賀に残留し、残りがならぬ向かうこととなる。多品治が3千の兵とともに萩野(たらの)に駐屯。倉歴道の防衛には田中足麻呂があたる。
7月5日
7月5日 坂本財の部隊が大阪側に進出するが、壹伎史韓国(いきのふひとからくに)の率いる朝廷軍に敗れ飛鳥に撤退。(亡命百済人の部隊なら、めちゃ強いだろう)
7月5日 大伴吹負軍、乃楽山で惨敗し四散。朝廷軍は一気に飛鳥まで進出する。
7月5日 大伴吹負は落ち延びた先の宇陀(大和街道)で紀阿閉麻呂軍の先鋒、置始菟(おきそめのうさぎ)の部隊1千人と合流。
7月5日 倉歴の夜戦。朝廷軍の田邊小隅が近江から伊賀への攻勢をかける。夜襲にあった足麻呂部隊は敗走。
7月6日
7月6日 大海人の大和合同軍、二上山のふもとの当麻(たぎま)で壹伎史韓国のひきいる朝廷軍と2日間の戦闘の上勝利。韓国は軍を離れて逃亡。
7月6日 天武軍を追走した田邊小隅の朝廷軍、萩野(たらの)で多臣品治軍3千人の迎撃を受け敗退。
7月7日
7月7日 箸墓(はしはか)の戦い。大野君果安の朝廷軍と大伴吹負・置始菟連合軍による最終決戦。朝廷軍は敗走し、大和地方の闘いは終了。
7月7日 息長横河(おきながのよこかわ)の戦い。現米原市醒ヶ井付近の息長で、村国男依(おより)らの軍が朝廷軍を破る。以後進撃を続ける。
7月9日 鳥籠山(とこのやま)の戦い。現彦根市大堀山で村国男依の軍が朝廷軍を破る。
7月13日 大海人軍が敗走する朝廷軍を追撃。安河(現野洲川)で撃破。
17日 さらに栗太(くるもと 現栗東町)の戦いで朝廷軍を破る。このあと最終決戦に備える。
7月22日 瀬田唐橋の決戦。朝廷軍は総崩れとなる。
7月22日 天武軍の北回り部隊、朝廷軍最後の防壁となった琵琶湖西岸の三尾城(高島町)を陥落。
7月22日 大伴吹負軍、奈良から山を越え大阪へ進出。難波を制圧する。
7月23日 長等山へ敗走した大友皇子、「走 (にげ)て入る所無 し。乃ち還りて山前 (やまさき)に隠れ、自ら縊る」
7月24日 大友の首級が不破(野上)の天武のもとにもたらされる。
8月25日 近江の重臣のうち右大臣中臣金(なかとみのかね)ら8名が死罪となる。
9月8日 大海人は不破を出発し飛鳥に向かう。
9月15日 大海人皇子はもと蘇我氏の邸宅の跡に建てられた嶋宮に入る。
673年
2月 大海人皇子は飛鳥浄御原宮にはいり、天武天皇として即位する。新羅から金承元が使節として派遣される。
上級役人を皇族で固める皇親(こうしん)政治を開始。「大君は神にしませば」と神格化が行われる。同時に官僚制の見直しで才能を重視した昇進制度の整備。
675年 新羅、王子忠元を派遣。天武天皇は遣唐使は一切行わず、新羅からの使が来朝するようになった。倭国から新羅への使も頻繁に派遣された。その数は天武治世だけで14回に上る。
677年 唐と新羅の戦争状態が終結。

681年
681年 天武の子の舎人親王が中心となって古事記が編集される。
3 日本書紀の編纂作業が始まる。完成までに約40年を要す。

684年 「八草の姓」が定められる。

686年9月 天武天皇が死去。草壁皇子と鵜野讃良皇女が全権を掌握。皇位継承のライバル大津皇子を謀反の容疑で処刑する

689年 鵜野讃良皇女が飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を発する。

690年 持統天皇、飛鳥浄御原で即位。

694年 藤原京に遷都。

697年 持統天皇が上皇となり、草壁皇子の子軽皇子(文武天皇)に譲位。

701年 大宝律令が制定される。二官八省体制がスタート。

702年 持統天皇が崩御。この年遣唐使が30年ぶりに再開される。

707 讃岐国の錦部刀良(にしごりとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部信太形見(こせべのかたみ)らが虜囚生活を終え帰還