1.「古事記が親新羅で日本書紀が親百済」という伝説
これも例によって読書途中の備忘録なので、飛ばしてもらって結構ですが…
関裕二「古事記と壬申の乱」というPHP新書の一冊。
途中までふむふむと言いながら読んできたが、いきなり発狂した。
古事記が親新羅で日本書紀が親百済だというのだ。
これを大前提にしながら、荒唐無稽な話へと突き進んでいく。
「えっ、そんな話なんかあったっけ」と思いながらネットを探してみたが、結局関さんという人が拡散した情報絡みの記事ばかりだ。
2.「古事記はニュートラルだ」というべき
大体、古事記と日本書紀の成立過程から考えれば、古事記が新羅っぽくなるのも、日本書紀が百済っぽくなるのも当たり前の話だ。
話題がかぶるのは仕方ないにしても、古事記は基本的にはギリシャ神話の世界だし、日本書紀は史記の世界だ。そして古事記は出雲神話を相当取り込んでいて、新羅から出雲へと渡ったスサノオを始祖とする系列の神話が大量に紛れ込んでいる。
これに対し、日本書紀の制作には百済から亡命してきた知識人が深く関わっており、百済本紀の内容も大量に紛れ込んでいる。百済が新羅に対して反感を抱くのは歴史的に見て当然のことである。
さらに言えば、大倭国というのは任那と筑紫・肥前を抱合する倭人国家であり、任那を滅亡させ併合した新羅に対するルサンチマンは倭国も共有している。大和政権固有の伝承を中核とする古事記は、これらに対して関わりは薄い。
これらを以て親百済とか親新羅とか言っても仕方がない話だ。
3.古事記は百済滅亡への関心は薄い
古事記の外交的立場を云々するなら、大化の改新以降の出来事の記載について評価していくしかないと思う。しかしそのあたりを書いた記事は、古事記にはほとんどない。
天智が親百済で、天武が親新羅というのもすなおには納得出来ない。
率直に言えば大和朝廷にとっては百済だろうが新羅だろうが、どうでも良い話だ。問題は中国だ。
中国(唐)は百済に攻め入りこれを滅ぼした。日本は百済を支援して闘ったが敗れた。このとき新羅は唐と結び日本軍を撃破し、百済を滅亡へと追いやったのであるから、どう考えても敵である。
それは天智にも天武にも中臣鎌足にしてもおなじことである。
そして中国は日本に服従を迫り、使者が難波まで来て待機していた。そういう中で壬申の乱が起きたのである。
このあと情勢は一転する、唐は日本を後回しにして高句麗の征服へと向かった。とりあえず国難は遠ざかった。そこへ持ってきて新羅が唐に離反し朝鮮半島からの追い出しを図ったのである。
そうなれば新羅への態度は一変する。日本にとって、新羅は最大最強の敵である唐と闘う同盟国となるのである。
4.独立ほど尊いものはない
だから唐を我が国最大の脅威として立ち向かうことが国策であるとすれば、新羅と闘ったことも、後に同盟国となったのも至極当然の対応であり、天智、天武、持統の個性や、国内事情など何の関係もない。
ただしあるとすれば、難波までやってきて屈服を迫る唐に対して従うか、あくまで闘うかの選択はあったのだ。その選択をしないままに天智は死んでしまった。(あるいはしたのかもしれない)
そして壬申の乱に勝利した天武は屈服の道を選ばずに済ました。
これが基本的な道筋である。
この基本線を踏み外した「解釈」は、まったく説得力を持たない「勝手読み」にすぎない。

我がブログを振り返ると、2年前にも関さんの本を読んでいた。
その時の感想が
非常に面白かったが、疲れる本でもある。
基本的には「言いたい放題」の本だが、示唆に富む部分もたくさんある。
と書いてある。
2年経ってたまたまおなじ関さんの本を読んで、同じ感想を持つこととなった。関裕二さんの指摘は個々の事例については非常に面白いのであるが、「反中国」が緊急かつ決定的な国是であったという時代背景を絶対に外してはならないのである。このことを強調しておこうと思う。