遠山美都男さんの「天智と持統」という本にハマっている。
講談社現代新書で2010年の発行となっている。
新書なのだがけっこうおもったるい本で、1日で半分しか進んでいない。
そこまでの感想なのだが、おもったるい理由は日本書紀の天智紀の通説をひっくり返すのが主題だからである。さらに言えば、そのひっくり返し方が新資料を持ち出すのではなく、読み方をひっくり返すやり方だから、「うーむ…」とうなりながらの理解になっていくからである。
こうやってこれまでの説を打ち破りながら「もう一つの天智天皇像」を構築していくのだが、半分読んだところまでの感想としてはあまり説得力はない。
率直のところわかったのは、天智が殺人鬼だということだ。最初に入鹿と馬子を殺し、ついで自分より上位の皇位継承者を殺し、叔父をカイライに仕立てて難波に王朝を建てるが、叔父が気に食わないと放り出して明日香に帰って別のカイライを建てる。叔父の息子(有間皇子)が反乱を企てると、一族郎党皆殺しだ。
なぜそうなったのか。
有間皇子をそそのかした蘇我赤兄臣という人物が「三つの過失」にまとめている。
1.巨大な倉庫を建て、人民から搾取した財をそこに集積したこと
2.長大な運河を掘削し、その工事にあたる人民のために公糧を無駄遣いしたこと
3.船に石を載せて運び、それを丘のように積み上げたこと
これは蘇我赤兄臣が見た658年における状況である。そして有間皇子が天智に反乱するようそそのかす上での根拠である。
天智が孝徳とたもとを分かって大和(倭京)に戻ったのは654年のことであるから、その後の4年間の天智の治世に対する評価である。
であれば、なぜ天智が大和に戻ったか、なぜ土木工事に集中したのか。それは650年から654年ころに起きた情勢の変化に起因しているとみる他ない。そしてなおかつ、その情勢の変化に対する判断において、孝徳と決定的な乖離を生んだと考える他ない。
天智(おそらく天武も)はこのとき、1.もはや難波にいるべきではない、2.国土防衛の工事をあらゆる犠牲を払ってでも行うべきだ、と決断したのではあるまいか。

ここまでの記事に天武(大海人)の名は全く出てこない。それはおそらく彼が天智と完全に一体となって行動しているからであろう。私は以前から、天武こそ天智路線の正統な継承者だと考えている。他の連中が日和ったから天武が立ち上がったのだろうと思う。
この辺を、明日の後半部分で確かめていきたいと思う。

なお、大海人の名が壬申の乱の直前まで出てこないのは、これらの活動に参加していなかったからだとする意見があるが、これは違うと思う。

「藤氏家伝」によれば、とある宴席で、大海人が床に槍を突き刺し、激怒した中大兄が剣を抜いた。鎌足が間を取り持ち、ことなきを得た。(関裕二氏による)


藤氏家伝と言うのは中臣→藤原家の家伝である。だからこのエピソードは鎌足の自慢話だろうが、立場を変えてみてみると、三者はそれほどまでに一心同体の深い関係にあったということだ。だからいちいち実弟・大海人の名をあげる必要はなかったのだろうと思う。