多分、同じ理屈で後半部分がヒトラー政権成立史として分離していくことになるでしょう。
とりあえず、それまでのつなぎとして…
1919年
19年2月
3.02 モスクワで第3インター(コミンテルン)創立大会が開かれる。
4.07 ミュンヘンでバイエルン州政府が倒され、スパルタクス団によるバイエルン・レーテ共和国が成立した。
5.01 ノスケ国防相がミュンヘンにフライコールを派遣し弾圧。レーテ共和国は崩壊する。このあとバイエルンは右翼の拠点となっていく。
6.20 ヴェルサイユ条約受諾をめぐり、民主党が連立を離脱。シャイデマン内閣は崩壊しバウアー内閣が発足。
6.28 ヴェルサイユ条約調印。その後多額の賠償金がドイツを苦しめる。
7.31 ヴァイマル憲法可決:賛成262票、反対75票、棄権1票
8.11 ヴァイマル憲法が公布される。大統領の権限の強い共和制、州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた。
11月 ヒンデンブルク前参謀総長が国民議会で証言。「敗戦は背後からの匕首のせい」と述べ、軍は敗北していなかったと主張。
1920年
20年3月
3月13日午前 カップ一揆が発生。ヴォルフガング・カップとエアハルト海兵旅団がベルリンへの進軍を開始する。
3月13日午前 エーベルト大統領は国軍に鎮圧を命じたが、陸軍統帥部長官ハンス・フォン・ゼークトは「軍は軍を撃たない」として出動命令を拒否した。
3月13日午後 カップは新政府樹立を宣言した。エーベルトはシュトゥットガルトに避難。ゼネストを呼びかける。
3月17日午前 カップが亡命して一揆は終結した。ゼネストを主導した全ドイツ労働組合同盟は責任者の処罰等を求め、ゼネストを続行。
3月17日午後 バウアー首相が退陣。ノスケも国防相を解任された。総司令官に就任したゼークトが軍の全権を掌握。
3月 ルール地方で暴動が発生。
6.06 最初の国会選挙。ヴァイマル連合勢力は退潮し、左派の独立社会民主党と右派のドイツ国家人民党やドイツ人民党が議席を伸ばす。
6月 社会民主党が政権を離脱。中央党と民主党と人民党の3党による中道右派連立内閣が成立。
10月 独立社会民主党、コミンテルンへの参加をめぐって分裂。左派は共産党に合流、右派は翌年社会民主党に復帰。
12月4日 ドイツ共産党がコミンテルンに加盟。コミンテルンは絶対服従を要求。指導者パウル・レヴィは更迭され、ハインリヒ・ブランドラーが書記長に就任。
1921年
3.08 連合国軍がデュイスブルク、ルールオルト、デュッセルドルフを占領。
3.20 ポーランドとの係争地帯であるオーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票が行われる。ドイツ帰属派が多数を占めたが、ポーランド帰属派の「蜂起」を受けた国際調停により、ドイツ側に不利な分割が行われる。
3.23 ドイツ共産党、ザクセンやハンブルクで「中部ドイツ3月蜂起行動」を展開。コミンテルンのクン・ベーラ(ラーコシ・マチャーシュ)が指導し、中部ドイツのマンスフェルトを占領。軍によって数日後に鎮圧される。
3月 連合国によるロンドン会議。賠償額を1320億金マルクとするロンドン最後通牒を発する。支払い方式は、30年間にわたり年間20億マルクを払い、さらに輸出額の26%を天引きするという過酷なもの。
4.16 独ソ会談で、ソビエト政権の承認、独ソ双方の賠償・債務の放棄を定める。また軍同士による秘密協定も結ばれる。国内右派は一斉に反発。
5.10 ドイツ政府、ロンドン最後通牒を受諾。
6.24 独ソ協定に努力したラテナウ外相がコンスルによって暗殺される。政府は「敵は右側にいる」とし反政府活動への対処を始めた。
7.21 「共和国保護法」が成立。左右の過激派活動への取締りは強化され治安が回復。
7.29 ヒトラー、DNDAP党首となる。
8.29 バイエルンと政府との紛争。非常事態の布告。
10月 社会民主党に独立社会民主党の右派が合流した。
1922年
8月 インフレーション加速。
9月 ムソリーニのローマ進軍。
1923年
1.11 フランス・ベルギー連合軍、ドイツの賠償不履行を理由にルール地方に進軍。石炭やコークス・木材等の物資を接収して賠償にあてる。
1.11 ドイツ政府はフランスへの協力を禁止し、ストライキやサボタージュなどによる「消極的抵抗」を呼びかける。
8.12 「消極的抵抗」が、多大な犠牲を生む中で中止に追い込まれる。インフレは天文学的な規模になり、28%が完全失業者となり、42%が不完全就労状態となる。
8.13 シュトレーゼマンを首班とする大連合内閣が発足。「消極的抵抗」の打切りを宣言。全国に非常事態宣言。
10.10 ザクセンとチューリンゲンで社会主義政権樹立。ザクセンの社会民主党・共産党政府に対する中央政府の武力介入。バイエルンでも中央政府との紛争。
11.03 社会民主党、ザクセン、バイエルンでの中央政府の対応を不満とし、政府から離脱。
11.8 ヒトラーと国家社会主義ドイツ労働者党など極右派がドイツ闘争連盟を結成。ミュンヘン一揆を起こした。エーベルトは全執行権力をゼークト将軍に委任。
11.15 国有地を担保としたレンテンマルクへの通貨切り替え(デノミネーション)を行う。1兆紙幣マルクが1レンテンマルクとなる。これによりインフレの沈静化に成功した。
12月 イギリスとアメリカが賠償問題の解決に乗り出す。ドーズ委員会が設置された。
1924年
2.13 非常事態終結を宣言。
4.09 ドーズ委員会、連合国賠償委員会にドーズ案を提出。ドイツに8億マルクの借款を与え、一年あたりの支払い金額も緩和するもの。ドイツはこれを受諾。
5.04 第2回帝国議会選挙。社会民主党が敗北し、ドーズ案を「第二のヴェルサイユ条約」と批判する国家人民党と共産党が躍進。
12.07 第3回帝国議会選挙。ドーズ案の受け入れ後に景気は好転し、失業者もほとんど消滅したことから、ナチ、共産党ともに後退。
1925年
2月28日 エーベルトが死去、大統領選挙が行われる。右派の推すヒンデンブルク元参謀総長が160万票差で当選
7.14 フランス軍、ルール地区から撤退開始。連合国軍、デュッセルドルフ、デュイスブルク、ルールオルトからの撤兵。
10.5 ロカルノ会議が始まる。ヨーロッパにおける安全保障体制の構築を目指すもの。
1926年
4.24 独ソ両国の不可侵と局外中立を定めたベルリン条約が締結される。
9.08 国際連盟への加盟が満場一致で承認され、常任理事国となる。
12.10 シュトレーゼマン、ノーベル平和賞を受賞。
1927年
1.31 連合国軍事委員会、ドイツから撤収。
1928年
5.20 第4回帝国議会選挙:SPD、KPDの躍進。DNVPの議席大幅減少。
6.20 ミュラーを首班とする大連合内閣が発足。
8.27 不戦条約(ケロッグ-ブリアン条約)、15カ国がパリに集まり署名。
1929年
6.23 NSDAPがコーブルク市の政権を獲得。
6月 オーウェン・D・ヤングを委員長とする賠償金委員会、実質的な賠償金額の削減となるヤング案を提示する。
7.09 フーゲンベルクの指導下に「ドイツ国民請願全国委員会」(DNVP、鉄兜団、ナチ党の連合)が設立される。
11.25 ウォール街で株価大暴落。アメリカ資本の一斉引き揚げが始まる。
1930年
6.30 フランス・ベルギー連合軍、ラインラントから期限前に撤兵完了。
7.16 経済財政緊急令公布。帝国議会は緊急令を否決。大統領、議会を解散。
9.14 第5回帝国議会選挙。ヴェルサイユ体制の破棄を訴えるナチ党が第2党へ大躍進(12→107議席)
12.01 ブリューニング、緊急令によって財政経済政策を実施。
1931年
2月 失業者ほぼ500万人。
3.21 ブリューニング、ドイツとオーストリアとの関税同盟案を発表するが、フランスにより阻止される。
5.11 オーストリア最大の銀行クレディット-アンシュタルト(Kredit-Anstalt)倒産。フランスがオーストリアの資本を引き揚げたためとされる。これを機にヨーロッパ全土の経済に打撃。
6.05 第2次経済財政緊急令:公務員給与の引下げ、社会保障費と州地方交付金の削減。
6.20 フーバー大統領、西欧諸国とドイツに対する賠償と債務の支払いを一年間猶予すると宣言(フーバー・モラトリアム)。
7.13 ダルムシュタット・ナツィオナール銀行が倒産。政府はすべての金融機関の業務停止。
11月 バート・ハルツブルクで「国民的反対派」の集会が開かれる。
12.08 「鉄戦線」の編成(社会民主党、労働組合総同盟、労働者スポーツ協会、国旗団、黒・赤・金グループ)。
1932年
1月 コミンテルンから派遣されたドミトリー・マヌイルスキーは、「ナチスは社会民主党の組織を破壊するがゆえにプロレタリア独裁の先駆である」と述べる。共産党のヘルマン・レンメレは「ナチスの政権掌握は必至であり、その時共産党は静観するであろう」と述べる。
4月 大統領選挙。ヒンデンブルクは最多得票を獲得、2位にヒットラーが入る。
4月13日 国防相兼内相のヴィルヘルム・グレーナー、ナチの突撃隊と親衛隊に対し禁止命令。その後シュライヒャーの策動で失脚する。
4.24 各州選挙でナチ党上昇。
5.20 オーストリアでドルフス政権誕生。
5.30 グレーナーに代わり国防相となったシュライヒャー、ヒトラーと組んでブリューニング内閣を辞任に追い込み、盟友のパーペンを首相に据える。
7.20 プロイセン・クーデタ。パーペン首相はプロイセン州政府を解任して国家総督を置く。
7.31 第6回帝国議会選挙。ナチスが230議席を獲得し第1党となる。ブルジョワ政党の壊滅的後退。
8.13 ヒトラーが首相任命を要求するが、ヒンデンブルクは拒否する。
9.12 パーペン内閣不信任決議が可決、帝国議会解散。
11.06 第7回帝国議会選挙。ナチ党は後退(196議席)するが、依然として最大政党にとどまる。共産党がベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党となる。
12.03 シュライヒャーはパーペンを辞職させ、自ら首相となる。パーペンはシュライヒャー打倒を目指すようになり、ヒトラーと組んでヒンデンブルグを説得。
1933年
1.04 ケルンでヒトラーとパーペンの会談。
1.30 ヒトラー内閣発足。
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