当初ワイマール共和国15年史という形で年表を作成し始めましたが、やっていくうちに興味が拡散してしまいました。ドイツの反戦からスパルタクスの反乱、そしてワイマール共和国の成立に至る過程が、それだけでめまぐるしいもので、とても単一の年表では語り尽くせなくなってしまうからです。

そこでこの間約3ヶ月間を「ワイマール共和国成立年表」として別建てすることにしました。

かつて学生時代は、これを「ドイツ革命史年表」として学んだものですが、今では「ソヴェート」とか「ボルシェビキ」に対する感覚が相当変わっていることもあって、「善・悪」の基準をできるだけ混じえずに俯瞰していくよう心がけたいと思います。

もちろん、歴史に対する進歩の思想は持っているので、ベタに事実を描きだすのではなく、ワイマールの進歩性、歴史的限界、さらにナチス支配を生み出したモノへの批判的分析はきっちりと踏まえていきたいと思います。

1918年

1月8日 ウィルソン大統領が14カ条を発表。大戦の講和原則と大戦後の国際秩序の構想を示す。

1.28 ベルリンで1月ストライキ始まる

3月3日 ブレスト・リトフスク条約が締結される。(ブレスト・リトフスクは一つの地名で、現在のベラルーシのブレスト) ヴェルサイユ条約締結によって消滅する。

3月21日 ドイツ軍が西部戦線に兵力・火力を集中し、一斉攻撃に出る。「カイザー攻勢」と呼ばれる。当初の1ヶ月で防衛線を突破しパリに迫るが、27万人の死傷を出し補給が困難となる。

8月8日 連合国軍が西部戦線で反撃に出る。総勢210万人のアメリカ軍が投入されたことで兵力バランスが崩れ、第2次マルヌ会戦とアミアン会戦によりドイツ軍が劣勢に陥る。

9月29日 ドイツ軍大本営(在ベルギー)のパウル・フォン・ヒンデンブルク参謀総長と参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフが連名で、ウィルソン休戦提案の受諾を求めた書簡を提出。

10月3日 マクシミリアン(バーデン卿マックス)、帝国宰相に任命され、ウィルソンとの休戦交渉開始。

10月 マクシミリアン、アメリカ側の意向を受け、議院内閣制や普通選挙など専制政治からの脱却を目論む。交渉継続に反対したルーデンドルフを解任。議会多数派の社会民主党はマクシミリアン工作を支持。

10.29 マクシミリアン、カイザーの退位を求める。カイザーはこれを拒否しベルギーのドイツ軍大本営に立てこもる。

10.28 ヴィルヘルムスハーフェンの海洋艦隊で「提督の叛乱」が発生。イギリス艦隊への攻撃を企図する。これに抗議する水兵の叛乱始まる。

10.29 出撃命令を拒絶した水兵1千名が逮捕され、キール軍港に送られる。

18年11月

11.03 オーストリア・ハンガリー帝国が連合国と休戦。

11.03 キールで水兵の釈放を求めるデモと官憲が衝突。暴動状態となる。

11.04 キールで「労働者・兵士レーテ」が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧する。レーテは政府が派遣したグスタフ・ノスケ(社会民主党員)を総督として認め、反乱は鎮静化する。

11.05 キールから出動した活動家により蜂起が拡大。リューベック、ハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェン、ハノーファー、ケルンがレーテの支配下に入る。

11.07 ミュンヘンで革命政権が成立してバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位する。独立社会民主党のクルト・アイスナーが首相に就任。他にザクセン、テューリンゲンで社会主義政権が成立。

11月09日

午前 マクシミリアン首相、皇帝ヴィルヘルム2世の退位を独断で宣言。みずからも首相を辞し、社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに禅譲する。ヴィルヘルムはオランダに亡命。

午前 ヴィルヘルムの退位を知ったカール・リープクネヒトが王宮に乗り込む。バルコニーから演説し、「社会主義共和国」の宣言(一種の決意表明であろう)をした。

午後 社会民主党の幹部フィリップ・シャイデマン、議会前に集まった群衆にドイツ共和国の成立を宣言。シャイデマン発言はリープクネヒトによる「社会主義共和国宣言」を防ぐための独断であったと言う。

午後 ベルリンで終戦を祝うデモ。ローザ・ルクセンブルクなどの政治犯も釈放される。

夕方 社会民主党、臨時共和政府の樹立に向け独立社会民主党への連立を呼びかける。「革命的オプロイテ」も議会に結集し、同意形成のための大衆的働きかけを強める。

革命的オプロイテ: ベルリン市内の職場や工場の組合指導者のグループ。約100名で構成され、12の中核組織を持っていた。政治的には独立社会民主党の左派に属しており、スパルタカス団とも親戚づきあいしていた。

夜10時 社会民主党の呼びかけを受けた独立社会民主党、シャイデマン評議会への参加を決める。

11月10日

午前 社会民主党と独立社会民主党の両党から3名づつの委員からなる「人民委員評議会」が成立。共同議長(首相)にエーベルトと独立社会民主党のハーゼが就任。

午後5時 「政府合意」を受けて労働者・兵士評議会(レーテ)の大会が招集される。3千名近くの代表を結集。会議を主導した「革命的オプロイテ」は、シャイデマン評議会を承認しつつ、いっぽうで「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」の結成とレーテによる権力掌握へと動く。

大ベルリン労兵レーテ執行評議会: 労働者レーテから社会民主党、独立社会民主党、半数ずつの12名。兵士レーテから12名の構成とされた。「人民委員評議会」との権限の境界は曖昧なまま残された。

午後 リープクネヒトがレーテの大会で挨拶。軍とエーベルト政府による反革命の危機を訴えたが、統一と団結の声にかき消されたという。

夜 エーベルトと参謀次長ヴィルヘルム・グレーナー(ルーデンドルフの後任)とのあいだに合意が成立。軍は新政府に協力することになる。

合意事項: 革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提供すること、政府は旧来の将校組織を温存すること。(おそらく会談そのものも合意事項も極秘であろう)

11.11 パリ北東コンピエーニュの森で連合軍とドイツの休戦協定が調印される。戦死者180万人、戦傷者425万人。

11月15日 労働組合と大企業の間に「中央労働共同体」協定が結ばれた。団結権の承認など資本家側からの譲歩と労使協調を内容とする。

11月 評議会政府、首都・王宮の治安部隊として「人民海兵団」を組織。クックスハーフェンから召集した水兵とベルリンの水兵部隊より編成される。組織内に急速にレーテが浸透する。

18年12月

12.06 ベルリンで共和国兵士がスパルタクス団のデモ行進に発砲し、16名の死者を出す。

12.16 全国労働者・兵士協議会の第1回全国大会がベルリンで開催される。ベルリンのレーテを掌握した急進派は、政治権力をレーテに集中するよう提案する。しかし全国レベルではレーテ集中派は100票にすぎず、国民議会を支持する社会民主党の代議員が350票を握っていた。

12.16 ハンブルク代表団、叛乱水兵の意志を代表して軍制の徹底的改革を要求。この改革案は圧倒的多数で決議された。

1.統帥権は文民のコントロールの下に置く(具体的には臨時政府かレーテ)
2.懲戒権は兵士評議会のもとに置かれる。
3.将校の選出権は将兵全員にある。階級章は廃止される。勤務外の上下関係は否定される。
水兵たちは将校団こそが反革命の脅威であることを熟知しており、ここでは譲らなかった。

グレーナー参謀次長との交渉に入るが、軍が難色を示したため先送りとなる。エーベルト・グレーナー同盟の存在は誰も知らなかった。

12月21日 レーテの全国大会、急進派の提案を否決。社会民主党と共和政府のもとめる国民議会の選挙を受け入れる。レーテの決定を受けた「人民委員会会議」政府は国民議会の選挙実施を決定。

12.23 王宮に居座った「人民海兵団」に対し臨時政府が退去を求める。海兵団はこれを拒否したため、政府は給料の支払いを停止。抗議のデモに軍が発砲しにらみ合いとなる。

12.24 政府軍が海兵団宿舎を砲撃、市街戦となる。海兵団と政府の間に和解が成立し戦闘は停止されるが、一連の事態を通じて政府と軍との密約が明らかとなる。

これとは別にベルリン警視総監エミール・アイヒホルン(独立社会民主党)が「保安隊」を組織するなど、ベルリンの権力構造は各派がしのぎを削る状況となる。

12.29 独立社会民主党、人民海兵団の弾圧に抗議し人民委員政府から脱退。ただし国民議会への参加は前提とする。

12.30 ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を主体にドイツ共産党(KPD)が結成される。「全権力をレーテへ」を掲げ、国会選挙のボイコットを決定。「革命的オプロイテ」派はボイコット戦術に反対し、共産党に加わらず。

モスクワから潜入したボルシェビキのカール・ラデックが、ためらうローザ・ルクセンブルクを説き伏せ、ドイツ共産党の結成に踏み切らせたと言われる。

 

1919年

19年1月

1.05 アイヒホルンが解任される。アイヒホルンはこれを不当としてベルリン警視庁に籠城する。

1.05 共産党とオプロイテは、アイヒホルンの罷免に抗議する大規模なデモを展開。武装した共産党系労働者が主要施設などを占拠した。

1.05 ミュンヘンでドイツ労働者党(ナチ党の前身)が結成される。

1.06 社会民主党、弾圧を知らせるビラ「決着の時が近付く」を配布する。

1.06 リープクネヒトやゲオルク・レーデブール(独立社会民主党委員長)は、政府打倒を目的とする「革命委員会」を設立。ルクセンブルクやオプロイテの指導者リヒャルト・ミュラーは蜂起に反対。

1.06 エーベルトはグスタフ・ノスケ国防相に最高指揮権を与えた。ノスケは旧軍人により「ドイツ義勇軍」(フライコール)を組織。

1.08 独立社会民主党の右派が、エーベルトと「革命委員会」との調停に乗り出す。話し合いは不調に終わり、多くの活動家は戦線を離脱する。

1.09 フライコールがベルリン市内で武力行動を開始。12日に武力対峙は終わり、スパルタクスの残党狩りに移行。

1.12 バイエルンで議会選挙。与党独立社会民主党は180議席中3議席にとどまる惨敗。

1.15 ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが虐殺される。

1.18 パリ講和会議が始まる。

1.19 国民議会選挙。投票率は82.7%に達する。社会民主党163、中央党91、民主党75、という議席配分となる。この3党で「ヴァイマル連合」を結成し、政権を握る。

19年2月

2.06 ヴァイマル国民議会が始まる。人民委員会議長のエーベルトが(暫定)大統領に選出。

2.10 国民議会、「暫定的ライヒ権力法」を採択する。国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認される。帝国時代の支配層である軍部、独占資本家、ユンカーなどは温存され

2.13 3党連合によるワイマル連合内閣が成立。社会民主党のシャイデマンが首相に選出される。