1.「イ族」のルーツについて
昨日見たNHKのドキュメンタリー「イ族」はまことに興味深いものであった。
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番組は四川省の山奥(大涼山)に暮らすイ族を成都三星堆遺跡の青銅器文明人の後裔だと断じていたが、もう少し科学的に証明してほしかった。
とにかく顔立ちがあまりにも日本人であることに驚く。かつて雲南・昆明の少数民族や、北ベトナムの少数民族を見た時の驚きをさらに超えるものがある。Y染色体をぜひ調べてほしいものだ。
断崖で隔絶された尾根に沿って、厳しい気候と痩せた土地にしがみつきながら暮らす人々が、意外なまでの技術・文化を持ち、気品を失わずに生活しているのは感激を抱かせる。
日本で言う「平家の落人部落」そのものである。
観光会社風に言えば「東洋のマチュピチュ」だが、マチュピチュよりすごいところが二つある。一つは生活があることで、一つは文字があることだ。
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中国まるごと百科事典には下記のごとく記されている。
彜族はプライドが高く、人情、信義と義理を重んじ、客を大切にする礼儀正しい民族。来客があると、さっと駆けつけて出迎えの歌を歌いながら酒を勧め、囲炉裏端の上座に座らせる。
また、彜族の男性は女性をののしったり殴ったりしてはいけないという決まりがあり、“立派な男なら妻を殴らない”ということわざもあり、たとえ敵でも女性は殺さない、という掟がある
ただし、これは一部の人々の話で、「涼山イ族自治州」の州都である西昌は人口57万人、イ族をはじめ28の民族が暮らしているそうだ。いろんな少数民族が混住しているので、「これがイ族の特徴だ」と断定はできない。
西昌
              西昌の下町

2.長江人の基礎史実
これまでの私の記事の中で確認してきた事実を並べてみよう。
南方経由でインド方面から東進してきた人々の集団があった。これはY染色体のハプログループで言うとOの1型に属する人々であった。O型人は先着のC型人を押しのけながら中国大陸南部に定着した。ここから派生したO1b人は、長江流域に広がった。O1人からはさらにO2人が派生し北方へと進出した。
長江流域に定住したO1b人は、1万年前ころに稲作栽培と水田農法を獲得した。それは湖北・湖南に始まり、下流および上流へと拡大した。

長江からさらに北方に進出したO2人は黄河を越えたところでC型人との拮抗関係に入った。

モンゴル~満州に先住するC2人は北方ルートで東方に進出してきた人々と思われ、中央アジアとの接触を保っていた。
5千年前、すなわち紀元前3千年というのは北方諸民族にとってエポックであったと思われる。
まず小麦の栽培が、続いて青銅器文明がメソポタミアからもたらされた。
直接の伝承者であるC型人も、それから技術を引き継いだO2人も、生活スタイルを根本的に変えることとなる。
O2人は小麦を栽培する農耕民に姿を変え、南をうかがうようになる。
青銅器に続いて、紀元前2500年ころには鉄器が伝播した。
黄河と長江が接近する中原では、紀元前2千年ころから鉄器を獲得した黄河文明が長江文明を征服・支配する時代が始まった。圧迫された長江人(O1b人)は、O1b1(一部O1b2)が南下した。残りのO1b2は西方及び北方へと拡散した。西に進んだ長江人は四川省三星堆に青銅器の一大文明を築いたが、これもやがて北方人により滅ぼされる。
番組ではイ族がこの「三星堆」人の末裔であることが「最近の研究により判明した」と断定するが、大変魅力的な提起ではあるにせよ、あまりにも大胆だ。率直のところこれには保留せざるを得ない。
下流域の長江人は北方人の支配を逃れ、山東省から朝鮮半島、北九州へと渡り、弥生文化(とりわけ銅鐸文化)を花開かせることになる。
ただし弥生文化の後半は、長江人(銅鐸人)ではなく征服者(天孫族)の文化であるが…

 2016年10月22日 


3.イ族の民俗学的特徴
http://www.gesanmedo.or.jp/uli224.html
もとは蛮族を意味する「夷族」と表記された。
ウィキでは「南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきた」とされているが、この説は否定されつつある。
人は黒イ(武士)と白イに分けられる。黒イは人口の7%。白イがさらに3階層(平民・農奴・奴婢)に分かれるなど複雑な奴隷制度をもつ。
父子連名制によってつながる父系親族集団である。(これらの社会システムは彼らの現状にはまったく似つかわしくない)
言葉は六方言に大別される。互いにほとんど通じない。
彝文字(ロロ文字)と呼ばれる表音文字を持つ。約1000年前に創作されたという。象形文字を母体とする音節文字である。日本の「神代文字」とは違いかなりの量で現存し、使用されている。

4.民族の伝承
格言および祭祀などが、祭文の形で蓄積されている。叙事詩『阿詩瑪』もその一つ。
イ族の祖先は、黄河上流地域をその発祥の地とする。その後南下し、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達した。つまり、秦と同じ征服王朝であった可能性がある。
漢王朝時代には西南夷、三国時代には南蛮と総称され、強勢を誇った。
大涼山一帯の黒イ集団は、中華民国時代になっても支配を強力に維持し、ロロ独立国とさえいわれた。
ただ、今回の「天頂に生きる」の引用している文献は既出のものとは違うのかもしれない。