慰安婦問題については、慰安婦はなかった式の議論は論外である。南京事件はなかった式の話と同じである。ポスト・トルースの歴史修正主義と言ってよいのだろうと思う。
ただ以前からアジア女性基金のことは気になっている。そこにはっきりしたハシゴがかかっているのに、韓国側がこれをなかったかのように無視し続けている。
これではどうやっても議論が噛み合わない。
今回、「アジア女性基金とわたしたち」という座談会を読んで、私の抱いていた奇異の念が根拠のないものではないことがわかった。
座談会の参加者は大沼保昭、横田洋三、和田春樹の三人である。いずれもアジア女性基金には主体的に関わっており、慰安婦問題には真剣に心痛められている。
結論として三人が三人とも、「あるNGO」(挺対協)の対応には怒りを抱いているが、そのニュアンスは三者三様である。
その経緯については不明であり、判断は難しいところはある。
ただ挺対協の主たる工作対象が国連の人権問題小委員会であり、ここに情報作戦を繰り返し展開していたこと、そしてつぎ込まれた情報にはかなり不正確なものも混じっていることが分かった。
最強硬派の大沼さんは、基金から手渡されたカネの行方まで及んで挺対協を批判しているが、これについてはあえて触れないでおきたい。
肝心なことは国連人権小委員会の下した事実認識が、事実とどの程度一致しどの程度乖離しているかという問題、もし乖離している部分があるとすれば、それはどのように修正されているのか、またはされていないのかという問題であろう。
「どっちにしても日本が悪いのだから…」と、かしこまっていたのではすまない状況になっていると思う。
おそらくは慰安婦問題に関する国連判断の基準となっているのがマクドゥーガル報告である。
これは国連人権委員会の「差別防止と少数者保護小委員会」(いわゆる人権小委員会)にたいする特別報告者ゲイ・J・マクドウーガルの報告だ。
中核的事実認識は以下のごとくである。
女性たちは…これらのレイプ・センターで毎日数回強制的にレイプされ、厳しい肉体的虐待にさらされ、性病をうつされた。こうした連日の虐待を生き延びた女性はわずか 25%にすぎない。
以下、その違法性の根拠が長々と展開されるが、中核的事実はきわめて情緒的な認識に依っている。“25%”はおそらくデマであろう(荒舩清十郎の個人演説会での話が唯一の根拠である)。
こういう極端な感情的議論は事件の正常な解決のためには百害あって一利ない。戦時性暴力の問題はもう少し奥行きの深いイシューなのだろうと思う。