唯物論と経験批判論 あらすじ
序論のかわりに
バークレー批判がまず展開される。おそらくあとから付け加えられたのであろう。率直に言えば不必要に長い。
初めての読者は、飛ばしたほうが良い。とにかくまずマッハから取りかかるべきだ。
エンゲルスの引用
「唯物論にとっては自然が第一次的なもので精神は第二次的なものであるが、観念論者にとってはその逆である」
この両者の間にエンゲルスはヒュームとカントを置き、彼らを不可知論者と呼ぶ。そしてその特徴として、世界の完全な認識の可能性を否定する点をあげる。
その後、ヒュームからの長い引用がある。ハックスレーからの重複引用。バークレイのような悪気はないということを言いたいようだ。
後半はディドロによるバークレー批判を紹介して終わる。
たぶんディドロを発見して「これだ!」と思ってこの序論を書いだのだろう。
第一章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その1
第1節 感覚と感覚の複合
この節では経験批判論の代表者と目される人物が紹介される。
まずマッハの所論の紹介と分析から始まる。
中間結論として、マッハは相対主義を唱えるが、相対主義と弁証法の違いを知らないということを示す。
そしてエンゲルスの言葉、「肝臓が胆汁を分泌するのと同じように脳髄は思想を分泌する」という機械的唯物論批判を対置する。
つまり相対主義は機械的唯物論への罰であり、非弁証法的という点においては五十歩百歩だということである。
この指摘は正しいのだが、その後十分に発展されているとは言い難い。
つぎにアベナリウスの批判に移る。
レーニンの当面の論敵であるボグダノフはアベナリウスの影響を受けたらしく、レーニンはこの二人を串刺しにして批判している
マッハ、アベナリウスに続いてイギリスのピアソンとフランスのポアンカレーが紹介される。
第2節 「世界要素の発見」
ついでレーニンはマッハ主義をマルクス主義に持ち込んだ最初の人物としてアドラーをあげる。
ここからレーニンの舌鋒は鋭さを増す。ここから先はもはや党派闘争の世界だ。
アドラー批判は、つまるところ「マッハもアベナリウスもそんなこと言ってないよ」というものだ。
そしてアドラーの「解釈」を受け継いだのがボグダノフだというわけだ。
アドラーの所説は、観念論者ヴントの経験批判論への攻撃にもとづいている。つまりヴントが徹底した観念論の立場から「マッハは唯物論者だ」と非難した言葉を借りてきて、「ほら、マッハは唯物論者だろう」というこずるい論建てをしている。
そこでヴントの所説の検討に入る。
なお、ここでさり気なく触れられている一文は注目に値する。
…しかし、他方、マッハとアベナリウスの当初の観念論が哲学上の文献で一般に認められているのと同じ程度に、経験批判論が後に唯物論の側に方向転換しようとつとめたことも、一般に認められている。
ということで、マッハの最近の著作(「認識と誤謬」1906)を引き合いに出す。そして折衷主義的な記述を引き出す。
第3節 原則的同格と「素朴的実在論」
ここからはアベナリウスの批判に移っていく。
アベナリウスが観念論でありながら折衷的態度を取っているとのべたあと、その後継者でより強硬な観念論者のエヴァルトらに攻撃が向けられる。
この辺は十把一からげだ。
第4節 自然は人間以前に存在したか?
この領域はマッハらにとってとくに苦手な分野である。そこで彼らの「言い訳」を取り上げてネチネチといじめる。
アベナリウスとその弟子のペツォルト、ウィリーが、しばしばカントやフィヒテを引き合いに出すのに応じて、レーニンもこれを批判するが、どちらかと言えば及び腰である。
そしてその後、今度はロシアの社会民主党内のマッハ派を取り上げる。最初がバザロフである。
自党内部の話だけに攻撃の厳しさは一段と増す。
第5節 人間は脳の助けを借りて考えるか?
これも前節とおなじような経験批判論の弱みだ。
これについてはアベナリウスが「イントロイェクツィオン」という詭弁を思いつき、ボグダノフはそれに引っかかった。
しかし、この詭弁は観念論者ヴントによって暴かれた。
ピアソンはこのような詭弁を用いずに、「意識がどこから来るのかなど関係ない」と開き直った。
第6節 マッハとアベナリウスの唯我論について
経験批判論は主観的観念論であり不可知論であり、最後は唯我論に陥る。
これについては「ネイチュア」誌の寄稿論文(ピアソン批判)と物理学者ボルツマンの文章を載せることで批判に替えている。
今日の私達からすれば、なにもバークレーからディドロ、フォイエルバッハを持ち出すまでもなく、これらの批判で十分であろう。
第二章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その2
マッハ批判はすでに終わったが、これから先は党内論争になる。
きっかけはマルクス主義理論家プレハノフが、カントの「物自体」を認めた発言をし、これに経験批判論の連中が噛み付いたことから始まっているらしい。
「エンゲルスと違うじゃないか」とやり始めたので、カント-エンゲルス-プレハノフという一連の理論の評価をしなくてはならなくなった、というのが経過のようである。
というより、レーニンがやりたくて始めたケンカのようだ。
その前にちょっと弁護して置かなければならないが、このときエンゲルスの「自然弁証法」は未発表である。だからエンゲルスの主張は部分的にしか取り上げられていない。
ということはレーニンもエンゲルスの主張を全面的に知った上で論戦に参加しているわけではない。
それにカントはネオカント派だって本格的に勉強したことはなかったはずだから、かなりボロは出ると思う。
これが党内向け論争でなく他流試合であったら、ここまで書くことはなかったろうと思う。さすがに恥ずかしい。
第1節 「物自体」、エンゲルスへの攻撃
この章はまず、チェルノフという人物が「物自体」に関してプレハノフを攻撃したことから始まる。ところが、チェルノフは勢い余ったか、「物自体」の把握についてエンゲルス攻撃まで始めた。
エンゲルスは、カントによれば不可認識的な「物自体」を、ひっくり返してすべての認識されていないものは物自体であると主張した。
というのがチェルノフの主張である。
そこで、レーニンは誰かの引用ではなく自分の言葉で長い反論を書いている。
しかしどうも売り言葉に買い言葉で、ポジティブな論証にはなっていない。
マルクスのフォイエルバッハ・テーゼの第二が引用されるが、この場合適切ではない。
これらのテーゼは、まずもって、観照の立場にとどまる唯物論者フォイエルバッハへの痛烈な批判である。
第2節 「超越」について エンゲルスの「改作」
エンゲルスはカントの物自体を少しも否定していない。認識の限界もふくめ承認している。その上で我々の認識限界を広げていくことは可能であり、その可能性は無限であると主張する。
「超越」というのはその時々の認識の限界を超えて、物自体の世界に踏み込むことであり、エンゲルスは科学的な仮説を除いて、原則的にはこれを認めない。そして科学的な立証を要求する。
これらについてレーニンは力説している。ただしさほど説得的ではない。
第3節 フォイエルバッハとディーツゲン 「物自体」の見解
まずフォイエルバッハが取り上げられる。彼が「物自体」を「実在性を伴った抽象体」と定義したことを紹介する。
ディーツゲンについても色々書かれているが、あまり興味ないので省略。
この節の結論。
1907年にはエンゲルスを否認し、1908年には不可知論へとエンゲルスを「修正」しようと試みる…これがロシアのマッハ主義者たちの「最新の実証主義」哲学である。
第4節 客観的真理は存在するか
ここまで行くと、「もうやめておいたほうが良いんじゃないの」と思ってしまう。今ではほとんど「禁句」だ。
むかしスターリン主義の哲学教科書には必ず載っていたが、この言葉には強い違和感を抱いた覚えがある。それこそ形而上学そのものだ。
とにかく第二章に入ってからというもの、レーニンは変調をきたしている。
客観的真理の否定は不可知論であり主観主義である。…自然科学は…その主張が真理であることを、疑うことを許さない。それは唯物論的認識論とは完全に調和する。
これは「すべてのものは疑いうる」とするマルクスのモットーと完全にバッティングする。
ところで、レーニンが引用したヘーゲルの言葉が面白い。
経験論は一般に外的なものを真実なものとし、超感覚的なものを認める場合でも、その認識は不可能であって、我々はひたすら感覚に属するものに頼らなければならない、と考える。
この原則が徹底させられるとき、それは後に人々が唯物論と呼んだものを産んだ。(エンツィクロペディ)
ウム、たしかにそうも言えるな。
第5節 絶対的真理と相対的真理 エンゲルスの「折衷主義」
まず「マルクス主義は永遠の真理というような独断論を許さない」というボグダノフの言が俎上に載せられる
エンゲルスの「反デューリング論」から長い引用が続く。
ついで今度はディーツゲンの主張に対する論駁が始まる。ただしディーツゲンは部分的に誤りを犯した唯物論者として位置づけられる。
正直のところ、レーニンの論理は相対主義者の尻尾をつかめないまま堂々巡りをしている。
問題は即自・対自という弁証法的な相対論(ヘーゲル論理学が一つの見本)と、ただの相対主義の違いだ。弁証法は相対的真理群を通底する法則を読み込む。ただの相対主義は確率論的にしか操作できない。そして確率論は、そこにとどまる限りでは限りなく不可知論に近い。
このへんはエンゲルスの「自然弁証法」を知らなかったレーニンの不幸だ。
第6節 認識論における実践の基準
これは以前から気になっていたところである。
レーニンはフォイエルバッハの第2テーゼをふたたび取り上げる。
真理が人間の思惟に達するかどうかを実践から離れて提起するのはスコラ学である。
そしてこれをエンゲルスの下記の言葉と結びつけることで議論を始めようとする。
不可知論に対する最良の論駁は実践である。
マルクスの言わんとする所は、「真理」とか「思惟」という概念がそもそもスコラ的であることだ。
エンゲルスの言葉は科学的事実を確認するにあたっては、やや雑駁にすぎる。やはり有無を言わせぬ技術に支えられた実験が必要である。マッハの衝撃波は、当時最新鋭の技術である写真を巧妙に用いた有無を言わせぬ証明だった。
ここでレーニンはマッハの言説を取り上げ、フォイエルバッハの言葉により批判する。
第三章 経験批判論と弁証法的唯物論との認識論 その3
第1節 物質とはなにか? 経験とはなにか?
第三章はボグダノフらとの党内論争を終え、ふたたびマッハ主義者との論争に戻る。
それぞれの節につけられたタイトルは、ひどく大げさである。正確に表すとすれば、例えば「『物質とはなにか?』についての経験批判論者のおしゃべりとその批判」とすべきであろう。
それにしても、「物質とはなにか?」はデかい。物理学の根本問題だ。一つの節であつかうような話ではない。
ただ、マッハ主義者の「物質」論を蹴っ飛ばすにはこのくらいでも十分なのかもしれない。レーニンはそう思ったのだろう。
まずアベナリウスの物質論から入る。彼は物質論を主張していないということが分かった。
次にマッハ。「物質は要素の連関である」
次にピアソン。物質は一定の感官知覚の群れである。
たしかにこれでは論争のしようがない。
レーニンはマッハがしばしば唯物論の側に脱線しているということに注目している。これについては私も同感である。
第2節 「経験」に関するプレハノフの誤り
「経験」というのはずるい言い逃れである。要するに感覚の集合である。そこから何か特別な概念でもあるかのように議論をこしらえていくのが経験批判論のやり口である。
感覚が経験として記憶されるためには、何らかの整理統合装置と記憶装置が必要である。それは感覚からは作り上げることができない。
ここのところをプレはノフは騙されてしまったらしい。
第3節 自然における因果性と必然性
この問題は端的に言えば「自然の弁証法」に関する議論である。
レーニンは個別の経験批判論者に反論はしているが、一貫した論理は持てないでいる。
彼には武器がない。ある場所では「エンゲルスにはこの問題での言及がない」と泣き言を言っている。エンゲルスの「自然弁証法」は、このとき彼の手元にはなかった。
自然科学的な知識が相当ないと書けない。自然の弁証法は、多くの観察と適切な実験から帰納的に導き出されるものだからである。
たとえばダーウィンについて言及していないことはかなりの欠落であろう。
とくにアベナリウスの弟子のペツォルトには悪戦苦闘している。現象の確率論的な扱いこそ彼らのもっとも得意とする分野だからである。
第4節 思惟経済の原理と世界の統一性
前の記事でも書いたが、マッハの「思惟の経済」はなかなか優れた観点である。知覚として溢れるほどの刺激が脳に飛び込んでくる。巨大コンピュータでなければ到底処理できないほどである。
これを人間は知覚の段階で整理し、諸知覚を統合する過程でさらに切り詰める。そして事物をゲシュタルトとして認識し記憶する。それはもはや感覚ではなく知覚でもなく、いわば「心像」とも呼ぶべき表象である。
このように圧縮し表象化する仕組みをマッハは思惟の経済と読んでいる。内容そのものはきわめて「唯物論的」である。
ただ「経済」はいかにもいただけない。物理学者らしく、語法がガサツなのだ。
これは「今月はちょっとピンチなので経済しました」というのと同じで、倹約の意味だ。語源的にはエコノミーというのは節約という意味であるから、それでも間違いではない。
レーニンも「まったく不器用な、気取って滑稽な言葉」と言っているから、ある程度分かってはいるのだろう。
統一性の問題はペツォルトが提起しているようだが、ペツォルトの真意が不明瞭なのでなんとも評価のしようがない。
第5節 空間と時間
まず、レーニンはフォイエルバッハの言葉を掲げる。
空間と時間はたんなる現象の形式ではなく、存在の本質的条件である。
これは19世紀初頭に打ち出された宣言であるが、いまも妥当である。
ただ極微の世界、宇宙の始まりの世界ではこれらの相互関係はぐちゃぐちゃで、いまだ汲みつくされた認識段階にあるとはいえない。
それらはニュートン力学の世界を相対化しているが、否定しているわけではない。それは宇宙・世界の階層性を示している。
その上でエンゲルスの言葉は説得的である。
時間の概念が問題なのではなく、現実の時間が問題なのである。
現実の時間というのは生命誕生、あるいは地球誕生以降の物質的運動について時間軸に沿った認識を現実的前提としなければならないということである。
感覚が全てというなら感覚の生まれたあとの時間と言ってもよい。
第6節 自由と必然性
エンゲルスの「自由とは必然性への洞察」に関して、認識論上の意義に関連して簡潔に触れられている。
ただしこれは、デューリングとの論争の文脈の中で出てきた言葉であり、「自由」そのものの本質的な規定ではない。
あらすじと言いながら、だいぶ長くなってしまった。第二分冊の方は稿を改める。
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