考えてみると大阪の歴史がよくわかりません。私の念頭には歴史上何回かフアーっと登場して、いつの間にか消えていきます。
難波京、堺と石山本願寺、豊臣秀吉の大阪城、元禄時代の繁栄、幕末・明治初期の沈滞、大正の大大阪時代、戦後の地盤沈下です。これらの歴史的現象はいつも「なぜ」の問題を素通りしていきます。
とりあえず、一つ仮説を立ててみました。大阪は結局対抗軸なのではないだろうか。
飛鳥に対する難波京、京都に対する大阪城、江戸に対する米蔵としての元禄なにわ、首都東京に対する軍都・商都としての大大阪…
日本という国が対抗軸を必要としたとき、大阪はその代表として浮かび上がり、必要がなくなれば衰退してきました。巨人がプロ野球を代表するとき、阪神はその対抗馬として求められたのです。
まず、年表づくりをやりながら、そういう「なぜ」の問題を追求してみたいと思います。
大阪市立図書館の年表が便利なので、これを骨格にしながら膨らませてみたいと思います。
593(推古元) 厩戸皇子(聖徳太子)が四天王寺を建てる
645(大化元) 都を飛鳥から難波長柄豊崎宮にうつす(前期難波宮)
754(天平勝宝6) 鑑真が難波津に到着する
1467 応仁の乱 細川の拠点となった堺が発展。明との交易も盛んとなる。
1496(明応5) 本願寺8世の蓮如が石山本願寺(実体としては城そのもの)を建立。上町台地に寺内町がつくられる
1532(天文元) 摂河泉で大規模な一向一揆がおきる
1550(天文19) 宣教師ザビエルが堺に上陸する
1580(天正8) 本願寺が織田信長との戦いに敗れ大坂を退去。寺内町は焼失する
1583(天正11) 羽柴秀吉が大坂に入り、本願寺跡地に築城開始。
現在大阪の町になっているところは、上町台地などを別とすれば、戦国時代までは低湿地だったところがほとんどです。秀吉はそこに東横堀川・西横堀川・天満堀川などの水路を掘らせ、水はけをよくするとともに、掘り上げた土で周囲を土盛りさせました。こうして低湿地が、人の住める町にかえられました。平野や久宝寺などから商人らがよびよせられ、現在の大阪の町の原型ができあがっていきました。1615(元和元) 大坂夏の陣で豊臣氏が亡ぶ。
1619(元和5) 幕府が大坂を直轄領とし、大阪城を再建。城代・町奉行をおく。
江戸時代になると、西のほうの湿地にもたくさんの堀川が掘られ、市街地がさらに広げられていきました。大阪は「水の都」と呼ばれるようになりました。1600年台後半 船場、天満地区に三大市場が栄える。
1703(元禄16) 近松門左衛門の曽根崎心中が初演される。「上方文化」の花が咲く。
1730(享保15) 堂島の米相場会所が幕府公認となる。現米の受け渡しのない帳簿上の「差金決済取引」が行われる。
堂島の相場が全国の米相場の基準となりました。大阪は「天下の台所」として繁栄するようになりました。多くの大名が中之島などに蔵屋敷をおいて、米や地方の産物を運びこみ、お金にかえていました。
1837(天保8) 元町奉行所与力・大塩平八郎が乱をおこす
大塩は与力をやめて塾をひらき学問を教えていました。天保の大凶作に際し私財をなげうって貧民救済に当たりました。その挙句、「救民(きゅうみん)」を旗じるしに兵をあげました。1838(天保9) 緒方洪庵が適塾をひらく。官制の学問にとらわれない私塾が発展。
1868年(明治元) 大阪が開港場となり川口居留地ができる、舎密局をひらく。
1869年 廃藩置県に伴い、大阪の繁栄のもとであった蔵屋敷が廃止される。豪商の倒産が相次ぎ、大阪は衰退期を迎える。
明治政府は硬貨や大砲の工場を大阪に設けたので、そこから近代的な工業の知識や技術が、大阪に根づいていきました。1874(明治7) 大阪~神戸間に鉄道開通、大阪府の江之子島庁舎完成
1876 年 堂島の米相場会所が「堂島米穀取引所」と改称され、先物取引を世界に先駆けて開始。
1885(明治18) 大阪初の私鉄が難波~大和川間に開通
1884(明治21) 東京(都部)の人口135万人
1889(明治22) 市町村制がしかれ大阪市ができる。この時の人口は47万人。面積は15平方キロ。
繊維工業がさかんになると、大阪は工業都市として再生し、人口も増え、市街地が広がっていきました。1895(明治28年)住友銀行が創業。大阪を本拠地として急速に発展、三井・第一・安田・三菱と並ぶ五大銀行となる。
1897(明治30) 大阪市第1次市域拡張、大阪築港起工式。
安治川口と木津川口から沖に向かって総延長10キロメートルの2本の防波堤をつくり、その内側を9メートルの深さにするもので、人工的に築いた港という意味で、「築港(ちっこう)」と呼ばれました。1903(明治36) 大桟橋が完成。第5回内国勧業博覧会がひらかれる、巡航船・市電・民営乗合自動車が営業。
1918(大正7) 米騒動おこる
1920(大正9) 第1回国勢調査、市人口125万人、府人口258万人
1923年(大正12年) 関東大震災が発生。被災者の一部が大阪市など各地に転居。
1925年(大正14年) 第二次市域拡張。周辺の残余44町村全てを編入して大大阪市が成立。東京府東京市を上回り、世界各国の主要都市でも6番目に人口の多い都市となる。
ニューヨーク(597万人)、ロンドン(455万人)、ベルリン(403万人)、シカゴ(310万人)、パリ(290万人)です。この年東京の人口は214万3200人。
1925年 野村財閥の主軸として野村證券が設立される。
1928(昭和3) 大阪商科大学設立
1929 梅田で阪急百貨店が開業。梅田は元は「埋田」、湿地を埋め立てたところであった。
1930年(昭和5) この年の大大阪人口は245万人。世界大恐慌。線維輸出を主体とする大阪の経済は大きな打撃をうける。
1931年(昭和6) 大阪城天守閣再建、中央卸売市場ができる、大阪大学できる
1933(昭和8) 梅田~心斎橋間に地下鉄ができる
1937(昭和12) 道幅44メートルの御堂筋が完成。11年を要した。
府県別生産額の推移(縦軸は全国比%)
1939年 堂島米穀取引所、戦時統制の強化により廃止される。
1945(昭和20) 空襲で市内の大部分が焼ける、10月の市人口107万人、府人口280万人
焼夷弾攻撃により約21万戸の家が燃え、1万人以上の人が死に、3万5千人あまりの人がケガをしました。1970(昭和45) 日本万国博覧会が千里丘陵で開かれる
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