私が「唯物論と経験批判論」を「やや古めかしい」と言ったのは、「物質が先か意識が先か」という問題設定がもはやほぼ解決済みのものになってしまっているからである。
「物質」というより自然の流れの中から生命が生まれ、生命活動の中から脳の活動が生まれ、脳の進化によって「意識」が生まれてきたことは、もはや疑いなく確かめられている。
残されたのは、「意識がどこまで物質を認識できるか」という問題なのだが、これは問題の設定そのものがきわめて曖昧だ。この問題に取り掛かる前に、意識とは?、物質とは?、認識とは?という3つの問題を片付ける必要がある。しかもこれは明らかに自然科学の課題であって、哲学の課題ではない。実証的にやっていかなければならない。
それにこれはWhat課題ではなくHow課題である。唯物論というよりむしろ弁証法の問題なのだ。

何かないかと探したら、下記の文章があった。
私の意見  「マルクス・レーニン主義から実践的唯物論への転換の困難さ」   島崎 隆
完全に同意するわけではないが、「唯物論と経験批判論」の評価についてはほぼ当たっていると思われるので、要約を紹介する。


1 問題提起

2 レーニン的唯物論の問題構成

レーニンは「哲学の根本問題」を物質と意識の関係と見た。そしてそれを「認識論上の根本問題」と理解する。

そのかぎりでは,「物質が先か意識が先か」を認識論的問題とみなして,観念論を批判した段階にとどまる。

私(島崎)は唯物論一般の議論を,さらに物質が先か意識が先かという哲学の根本問題を,ただちに認識論的問題とは見ない。 

私は、レーニンがマルクスの唯物論をきちんと押さえていず,唯物論一般のレベルを十分に脱却できていず,その結果マルクスを誤読してしまったとみる。

レーニンが「意識が存在を反映する」という場合は、あくまで認識活動としての「反映」である。だからレーニンは,「反映は近似的に正しい写しでありうる」という。

そして「社会的存在を社会的意識が反映する」というマルクスの命題を、上記の「存在を意識が反映する」という命題に直接につなげる。つまり、哲学的命題が社会に「領域内に限定されて,そこに適用された」(島崎)と考える。



島崎さんは少々わかりにくいものの言い方をする。
レーニンが「意識が存在を反映する」という場合は、あくまで認識活動としての「反映」である。
というのは、ある人間がある存在を認識し、それを意識に取り込めば、意識にその存在が反映されるということだ。
そうするとある人間がある存在をいかに認識したかで認識が変わってくるということになる。
最初は「群盲象を撫でる」が如き状態であったのが、次第に情報が共有化され、認識の方法が洗練されるにつれて正確に認識されるようになり、その結果、人々の意識は存在を正確に反映したものとなる、ということだ。
それは決してある物質が水晶体を通じて網膜上に像を結ぶ、という単純な反映ではない。
それは「意識に存在を反映させる」行為の過程全体を包括したものだ。(かえってわかりにくい?)



3 マルクス的唯物論の問題構成

これは,マルクスの「唯物論」とは基本的に異なる。マルクスは,「唯物論一般の立場は世界と人間をとらえるうえで不十分であり,それは観念論と同位対立に陥り,それを超えられない」と主張する。

フォイエルバッハ・テーゼの第一テーゼは、次のような構成になっている。

①従来の唯物論(フォイエルバッハ)の主要欠陥は,現実的対象がただ直観や認識の形式のもとでのみとらえられており,活動的な実践の産物として主体的に把握されていない。

②その活動的側面は,かえって観念論(ヘーゲル)によって展開されたが,しかし抽象的にしか展開されなかった。

その後マルクスは、従来の唯物論を超える新しい唯物論を提起し,それによってヘーゲルらドイツのイデオローグたち全体を克服しようとした。

このあと島崎さんは独特の「実践的唯物論」の展開に至るが、ここでは省略。ただレーニン批判としては、哲学的認識論と社会的構造とはレベルが違うだろうということに帰着する。

ヘーゲルは理念や精神から物質的なものを導き出そうとする。唯物論者であるはずのフォイエルバッハですら,愛というような観念を切り札としてもち出し,そこで観念論へ転倒する。

総じて宗教・道徳・哲学において,現実社会の発生源から切り離されて,何か究極の「真理」がそれ自体で自立して存在しうるかのように考えることは,すべて観念論である。

観念論が蔓延するのはなぜだろうか。マルクスはそこに,複雑な隠蔽関係や理念の「自立化」の現象を発見する。マルクスはまさに宗教を要請せざるをえない人間社会の悲惨さを暴露し,宗教を「阿片」と呼んだ。


4 実践的唯物論の現代性

こうしてマルクスが強調しようとしたのは、(社会的)意識を規定するのは(社会的)存在なのだということである。それは領域の単なる限定ではなく,むしろ根源的なものである。

ひとびとが抱く意識・観念は本人の自覚的意識にかかわらずすべて社会の産物であり,むしろ社会批判のなかで社会現象として説明されなければならない。

では科学的認識の位置づけはどうなるのか。

問題は二つある。

まず、科学の典型たる自然科学とはそもそも何かが問われる。これについては,「産業がなかったら,どうして自然科学などありえようか」とまず発問するのがマルクスである。つまり産業と交易のなかの実践的産物としてそれをとらえることである。

もう一つは、科学的認識とはいかにして可能かという問いである。これについては、認識一般ではなく、科学的・合理的という「意識」が問われなければならない。それが近代でいかにして発生したのかが、まず問われるべきである。

以上のごとく、マルクスの認識論は単純な科学重視の科学論ではない。弁証法を機軸としてヘーゲルを唯物論化した認識批判としてとらえられるべきである。逆に科学の絶対視は「科学主義・科学信仰」として批判されるべきである。


付言1 西欧マルクス主義への批判

現代の西欧マルクス主義は人間中心で主体的な側面をひたすら強調する。しかし人間社会も「自然存在」を大前提としており、自然進化のなかで発生したものである。

人間社会は人間と自然のあいだの質料転換(物質代謝)を必須の生存条件とする。自然弁証法の現代的意義は重視されねばならない。エンゲルス評価の二面性のきちんとした把握もふくめ、「自然の弁証法」の復権がもとめられている。



これには私も大賛成だ。以前シュミットのエンゲルス批判を読んで、「人間の独善化」には到底納得できないと思った。
エンゲルスそのものではないにせよ、自然・少なくとも生物界には弁証法があって、これが弁証法的唯物論の礎なのだと思う。
それは「自然の摂理」に対する「抗い」、ときには「叛乱」を本質としている。もちろん行き過ぎた「擬人化」も危険だが…




付言2 意識は「自然存在」と直結していない

ありのままの自然が意識に反映されるというというのは、没社会的・没歴史的な自然哲学である。

それこそは、フォイエルバッハにたいしてマルクスが批判したものである。たしかに自然は大前提ではあるが、意識にとってはすでに社会による実践的産物へと転化されている。いかなる自然観をもつかは、実は社会的・文化的背景の問題を抜きにしては語れないのである。


付言3 70年代理論活動の思い出

日本でもマルクス主義(弁証法を含む)は,かつて実に多くの知識人・文化人に影響を与え,社会の変革を願う大衆の学習するところともなった。それは社会科学や哲学の領域のみでなく,自然科学はもとより数学,体育などの分野にまで浸透した。だが不幸にして,そこで浸透したマルクス主義とは,上述のマルクス・レーニン主義であった。

1970年代以後,マルクス・レーニン主義(スターリン主義)の批判的検討が進んだ。だがそれは,マルクスに関心をもつ哲学研究者以外にはほとんど浸透せず,そのうち社会主義崩壊のなかでマルクス主義哲学は全般的に関心をもたれなくなった。

真理は発見されたときには,もはや見向かれなくなったというのが現実であった。

マルクス・レーニン主義が第一の誤りであったとすれば,マルクス主義哲学それ自身の放棄は第二の誤りである。


私も拙著「療養権の考察」発表において同じ思いを抱いた。マルクス主義がルネッサンスを迎えたとき、世間的にはマルクス主義の時代は過ぎ去っていた。
みな古文書を眺める目で私の本を見る。