小泉英明さんという人の書いた「脳科学の真贋―神経神話を斬る科学の眼 」という本を読んだ。

素人向けの本で私にも読みやすい。2、3時間で読めてしまう。

この人は日立でf-MRIや光トポグラフィーの開発に関わったヒトで、出身系列的には工学者ということになるのだろう。

その後は、「心と脳の科学」という領域に飛び込み、脳研究の組織・コーディネートに関わる一方、けっこう啓蒙書を書き飛ばしているという人だ。

ある意味では「脳科学の大御所」と目される存在である。

世にはびこる似非脳科学には批判的だが、実際にはきわどいところを渡っているという面も持つ。こういう道を選んだのは、養老孟司さんの影響だと言うが、たしかに似たようなところがある。

1.言語には時制観念が不可欠

読後感としてあまり強い印象はないのだが、言語把握の問題で面白い箇所があった。

それは、言語理解としては時制の問題が大きいということだ。時制の概念があるから言語が階層構造を持ちうるのだと言う。

言葉は単語の連なりだ。かんたんな応答ならたしかに単語を並べるだけで用は務まる。

我々が外人と喋るときはほとんどこれである。

しかしきちんと話さなければならないときはやはり述語を持って終止しないとセンテンスにはならない。

ところが、この述語というのは多くが動詞だ。つまりなんらかの動作である。動作でないときはbe動詞、つまり一定のあいだその状態が続いて“ある”ということになる。

これ自体、時制の観念なしには不可能だ。

入れ子構造になる「複文」では、二つの時制を構築しなければならない。

これらはチョムスキーの言語学の原理なのだそうだが、つまり単語を並べるだけなら猿でもできる。哺乳類や鳥類でもやっているかもしれない。

しかし、それが言語として成立するためには、時制の観念が不可欠なのだということである。

2.時制の観念を生み出したものは何か

小泉さんの話は、ここから「未来の概念」という方向に進んでいって、子供の教育の話になっていくのだが、目下のところそれより先に片付けねければならない問題がある。

それは「時制の観念を生み出したものは何か」ということである。

人間には体内時計があるといわれる。これは朝になると目が覚め、体温が上昇し、活動性が上がってくるというような自律神経の日内リズムのことだ。

しかし、言葉における時制はそれほど悠長なものではない一刻一秒の単位での時制だ。

それはやはり視覚の背側路からMTへとつながる、視覚の動画化以外にないのではないだろうか。これによって人間は時間を秒単位で認識できるようになった。

それだけではなく、時間の観念、ひいては過去や未来という「時空間」の概念を獲得したのではないかと思う。

もちろんそれは言語を身につけることを目的として獲得されたのではない、「旅」のため、オリエンテーリングのためだ。

時間感覚は空間感覚とペアーの形で獲得された。そしてこの時間感覚を利用することで、単語という空間感覚が前後の時間感覚の中で整序され、そのことで時制観念が生まれたのではないだろうか。

3.心の問題は今やる必要はない

脳科学者はすぐ「心」の問題に行きたがる。それは小泉さんも同様だ。

だからこういうことができるかもしれない。「脳科学」というのは、脳と心の関係をきわめる学問だ、と。

そうであれば、目下は私の関心領域ではない。私にとってまずだいじなのは、感覚入力の処理法をきわめることだ。

これと並行しながら、人間的認識としてそれらが統合されていく過程も追求されなければならない。しかしそれは知覚情報の処理についてある程度の知見が集積しなければ空語になってしまう危険がある。

人間的認識についての一定のコンセンサスが出来上がれば、この一連の過程を突き動かす駆動力についての議論と、初めて本格的な突き合わせが可能になってくる。

その時、初めて心(前頭葉)の問題が語られるようになるのではないか。

繰り返すが、脳というのは巨大な情報処理装置だ。そしてその情報というのはまずもって「感覚」として入力される。

だから、ざっくり言えば脳は感覚処理装置なのだ。

我々はここから知見を積み上げ、構築していくしかないのだ、と思う。