「脳科学」の言葉が拡散している。
なにかと便利だから、私も使う。そもそもがそういう言葉である。
例えば循環器医はしばしばみずからを「心臓屋」と呼ぶ。そのほうが人には分かりやすいし、扱う範囲のだいたいが心臓絡みであるからでもある。
そういう通称だけではなく、教科書も「循環器病学」という名前の他に、「心臓病学」というのもあった。上田英雄著だった。英語だとハーストの「ザ・ハート」というのが標準だった。
しかし「脳科学者」といわれる人が「脳科学」の名のもとに展開する議論は、ある種のいかがわしさを感じてしまう。
だいたい脳の研究というのは生物学研究者が担うべきものである。病気に絡めば医学の対象にもなるが、医学というのは一種の生物学だから矛盾はしない。
ところが最近、心理学者や工学者が闖入してきて、ずいぶんと引っ掻き回してくれている。理由はCT以降次々と新技術が開発導入されて、これに伴い新知見が山のように溢れて整理がつかない状況になっているからだ。それに大学が独立行政法人化されて、みんなが業績の宣伝に狂奔しているというご時世もある。
「心理学」というのがだいたい図々しい名称であって、「心の理」というのはそもそも哲学者が担うべきものである。と言いつつもすでに市民権を獲得してしまったから仕方なく使うが、研究対象が「心」である限りにおいてこれは科学ではない。
三木清は「幸福論」で次のように書いている。
以前の心理學は心理批評の學であつた。それは藝術批評などといふ批評の意味における心理批評を目的としてゐた。
人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評價することによつてこれを秩序附けるといふのが心理學の仕事であつた。この仕事において哲學者は文學者と同じであつた。
…かやうな價値批評としての心理學が自然科學的方法に基く心理學によつて破壞されてしまった。

2013年11月09日 三木清「幸福について」を参照されたい。

「心」などという実体はない。ただいろいろなものの統合された抽象概念としては存在しないわけではない。しかしその捉え方は千差万別であり、定義などできようもない。ほんわかと包みながら概念操作していくしかないものである。私は「心」という言葉の入った「脳科学」論文は、それだけで読まないことにしている。
彼らは心理学的手法を用いる彼らの学問こそが脳科学なのと主張しかねない勢いである。
かつて「心理学」の名を奪い取った彼らの厚かましさからすれば、「脳科学」を心理学の名称にしてしまう可能性は大いにある。彼らの後ろには無数の大衆がおり、彼らの支持する巨大メディアが控えているからである。
中野信子さんという方が美貌の脳科学タレントとして活躍されているが、医学も心理学も、率直に言わせてもらえば自己流である。
理研のボスでノーベル賞をとった利根川進さんという人がいる。この人は免疫学者だと思っていたが、いまや「脳科学」の旗を振っている。海馬の記憶機能の研究が主体のようだ。題名を見ての判断だが、この人のやっていることは生物工学だ。心理学者がネズミに餌をやるように、この人は海馬にいろいろ粉をふりかけてどう反応するかを見るのが専門だ。あわよくば“記憶物質”を探し出そうという魂胆だ。
一種の工学的発想で、これと言った哲学はない。無思想こそが科学だと誤解しているフシがある。

そのうち、脳神経系の研究は脳科学の一分野とされ、「大脳生物学」と呼ばなければならなくなるかもしれない。私はその中の一分野である「脳歴史学」に興味を集中させていくことにしよう。