三笠の炭鉱について
前回の記事で、三笠には幌内、奔別、幾春別の3つの炭鉱があったと書いたが、少しウィキで調べてみた。
なお三笠という市名だが、明治時代に存在した空知集治監の建物の裏山が奈良の三笠山に見えることから名付けたと言う。最初は三笠山村と言ったらしい。何かがっかりするような話だ。
炭鉱の歴史をざっと見ておく。
1968(明治2)年に幌内で良質な石炭が見つかり、11年後に幌内炭鉱として開業した。さらにその3年後には鉄道が開通した。鉄道は小樽の港までつながり、弁慶号や義経号が走ったのは有名な話である。
86年には幾春別炭鉱も開かれる。昭和5年に住友が奔別で操業を開始した。この炭鉱は明治の時代から小規模炭鉱として開かれていたが、住友が乗り出してきて本格的採掘を始めたもの。

戦後も三笠の鉱山は急拡大を続け、最盛期には人口が6万人を越えた。

もっとも条件の悪かった幾春別炭鉱は、石炭最盛期の昭和32年に早くも廃坑となっている。
65年前後を境にスクラップ化が進み、71年には住友奔別炭鉱が閉山した。
今も残る東洋一の櫓(立坑の深さは735メートルで、櫓の地上高も50メートル)を建ててから、わずか10年後のことだった。
という長い題のページに、内部や近接の写真がアップされている。発表しているのだから許可を貰って中に入ったのだろう。
そこに閉山に至った状況がかんたんに書かれている。何やら想像を絶する大爆発があったようだ。
爆発事故や坑内環境の悪化、そして石炭から石油へというエネルギー転換の波に飲み込まれ、昭和46年に炭鉱は閉山。その後、坑道の密閉作業中にも爆発事故が起こり、5人の尊い命が失われた。

追記
小樽総合デザイン事務局」の記事も見つけました。

下の写真は旧唐松駅に展示されているものだそうです。「奔別」のロゴがついた建物は竪坑櫓というのだそうです。

唐松駅

旧住友奔別炭鉱(そらち炭鉱の記憶アートプロジェクト)

2016.5 奔別炭鉱 2.7k 【空撮】

では動画も見られます。

奔別鉱の経緯については 奔別立坑物語 その一端

が詳しい。

しかし、事故の実態と真相はいまだ不明。

山道を登ったところに奔別の社宅や学校、病院まであったと言うので登ってみたが、その先に人家の有りそうな気配はなかった。
ネットで、そのあたりの景色が映されている。まったくの原野で、所々に人が住んでいたあとがわずかに残されている。結局行かなくて正解だったかもしれない。

当初は炭鉱すべてがだめだというわけではなく、選択的に建設も行われた。筑豊が全部ダメになったあと、坑夫のかなりの部分が北海道へやってきた。「黄色いハンカチ」の主人公もそうやって夕張に流れてきたという設定になっている。
ビルド鉱の一つが最も歴史の古い幌内炭鉱だった。ここでは昭和41年になってから巨大立坑が建てられている。なんと地下1千メートルだ。ここを50人乗りのエレベーターが行き来するのである。(スーパーカミオカンデも地下1千メートル)
その幌内炭鉱も89年に閉山した。すべての炭鉱が姿を消した。


9.28

本日の赤旗で、奔別のホッパーを産業遺産として保存しようという意見が載せられていた。

ちょっと複雑な気分である。

これは一般的な産業遺産ではない。死者を出した大爆発事故の残骸である。

きつい言い方をすれば、爆発リスクを深く考慮せずにヤミクモに掘り進んだ経営者・技術者の失敗の証である。

そして、再建の努力もせず、残骸を棚晒しにしたまま逃げ出した住友の無責任さの証である。

できたときこそ東洋一だったが、間もなく作られた北炭幌内の立坑は、地上高さえ劣るものの深度は上回っている。

肝心なことは、幌内鉱がそれを非勢いかんともし難くなった80年代末まで大過なく運営し、役目をまっとうしたことである。

産業遺産(ヘリテージ)とはそうあるべきものではないだろうか。

人類の愚かさを伝える「負の遺産」として残さなければならないものも世に数多くある。

しかし、奔別鉱の建屋がそれに相当するだろうか。