毎日サンデーの今日このごろですが、本日は好天に誘われて炭鉱町めぐりです。
まずは野幌から夕張鉄道線路の跡地を走る「きらら街道」に入り栗山まで。ここから先が鉄道が見えなくなりますが、栗山を過ぎて南下し由仁の手前、角田というところから左折して山に入っていきます。途中何気なく橋があって、下をいかにも元鉄道らしき細めの道が通っていました。おそらくこれが元夕張鉄道でしょう。ここから先はなかなかの難所で、蒸気機関車がスイッチバックしながら山を登っていったようです。
夕張に行く道路は道道3号線、通称「札夕線」ということで、しっかりと作られています。昔はメインのアクセスだったようですが、今はもっと南側に三川国道という立派な道路ができて夕張川に沿って南夕張につながっています。南夕張からは峠をいくつも越えて日勝峠から道東・十勝平野へと至る大動脈になっています。だから札夕線は夕張へ直接繋がる道路なのに道道のままだということなのでしょうね。
札夕線は富野というところまではダラダラ登りですが、そこからいきなり急坂になります。つづら折りを登り詰めたところにトンネルがあります。まぁ当たり前ですね。
ところが、トンネルを抜けると、そこがいきなり街なのです。なにか異界に飛び込んだようで、これはかなりの衝撃です。
道は間もなくT字路に突き当たります。鹿ノ谷といいます。
鹿ノ谷駅は北海道炭礦汽船の全盛期は、駅周辺の鹿の谷地区は幹部用住居が存在する高級住宅地であり、旧夕張北高校・夕張工業高校に通学する学生で賑わった。
そうです。
夕張の街は夕張川沿いに南北に伸びていてそれを1本の道がつなげています。いわゆる「ふんどし街」です。T字路を左に曲がると、つまり川上に進むと夕張の本町になります。役場や病院(今は診療所)があります。そこからもう少し行くと炭鉱博物館があります。30年位前までは大きな遊園地もあって、けっこう賑わっていました。まぁ今で言えば放漫財政の名残でしょう。
今日はそちらには向かわず右折して南に走りました。
間もなく「黄色いハンカチ」公園の看板があって左折して山に登ります。だらだら坂を登っていく途中に左折すると「黄色いハンカチ」の炭鉱長屋につくのですが、看板を見逃して進んでいきました。
すると大きな日帰り温泉があって、第3セクターの運営のようです。広大な駐車場に車が5,6台。その脇には特養だか老健だかがあって、北海道の田舎ではおなじみの光景です。
ただここが違うのはとんでもない煙突が立っているということ。高さなんと68メートルなんだそうです。この煙突は昭和36年、炭鉱が一番威勢のいいときに建ったそうです。根元の直径が約7メートル、先端も3メートルくらいあるそうです。石炭を精製してコークスを作る工場があったそうですが、いまはそれは影も形もなく、駐車場の片隅にこの煙突だけが残されているのです。元は街のシンボルとして屹立していたものが、今は広場の片隅に巨体を持て余して、「すいませんねぇ」という趣で佇んでいるのがそぞろ哀れを催します。
とにかくこれはすごい産業遺産です。夕張に行ったらとにかくこれだけは見ておいたほうが良いです。
少し道を戻って「黄色いハンカチ」の長屋に向かいました。なかなかいい施設ですが、入場料はちょっとお高い。ただこの施設の維持のために頑張っている人たちの努力を考えると「まぁいいかな」という気もします。
長屋の外見は昔のままですが、一歩中に入るとモダンなギャラリーです。
飾ってあるマツダのファミリアを見ながら、しばし感慨にふけりました。あの映画はけっこう時代をまたいでいるのです。寅さんのような古き良き時代を懐かしみながら作られているのです。あの映画が理想としているのは、映画の時代より10年から20年遡った時代なのです。
昭和52年には、もうすでにバブルの時代に突入していました。ファミリアは買って買えないほどの車ではなかったのです。現にそれから数年後には私の嫁さんがファミリアのXGを買っています。
我が家は嫁さんが貧乏教師の娘なのに贅沢で、私は嫁さんの車の型落ちで乗っていました。結婚したときに嫁さんの親のスバルをもらい、嫁さんがレオーネを買うと私がスバルを運転しました。
「子供を保育所に送り迎えするから」と言っていたのですが、実際に送り迎えしたのは私でした。
スバルが故障ばかりするのでスズキの軽に乗り換え、そのあと中古でダイハツのシャレードに乗っていました。冬の暖房が効かないのには参りました。
つまり車が典型的だったのですが、時代は右肩上がりだったのです。ところが石炭は斜陽だったのです。
いまの若い人はそのへんがわからないから、あれが昭和52年のリアルストーリーだと思ってしまう。そうじゃないんです。あれは戦後30年、人間が少しゆとりを持って人生というものの価値を考え直し始めた時代の精神なんです。
その前には「愛と死をみつめて」のミコとマコの世界がある(なんと吉永小百合のきれいなことか)。「名もなく貧しく美しく」の小林桂樹と高峰秀子の世界があるんです。
たしかにそのように考え直そうとした人間がいた、しかし同じその人間が一方ではけっこうエコノミックアニマルまっしぐらでもあったんです。
まぁそんなことで「黄色いハンカチ」をあとにして国道に戻りました。
第4の見ものが清水沢の飲み屋街です。このあたりには夕張本町とは違う炭鉱がたくさんあったようで、清水沢駅の近くにはたくさんの飲食店があります。三菱大夕張の線路がここに来ていましたから、三菱系の関係者のたまり場だったのかもしれません。
店は全て閉じていて、中には崩れかけたものもありますが、中には「本日定休日」みたいな雰囲気を残す店もあります。まさに廃墟観光の決め技です。かつては夜ともなれば紅灯の巷と化したのでしょうが、今だと夜歩くのにはかなりの度胸が必要かもしれません。
昭和60年頃、私が菊水の病院に勤めていたときには、バスの便が良かったのか清水沢の人が外来に通院していました。その頃はまだ結構鼻息が荒くて、「本町はもう落ち目で、これからは清水沢が夕張の中心だ」みたいなことを言っていましたが、あえなく轟沈したようです。
その清水沢もご覧の有様。いまはもう一つ先の南清水沢が「第二都心」になっています。
それ以上南に行ってもしょうがないので、清水沢から大夕張の方に入りました。夕張には何回か行きましたが、大夕張には行ったことがなくて前から気になっていました。途中、有名な水力発電所跡が見えますが、今回はパスしました。
「時すでに遅し」というのは大夕張もおなじで、北炭系よりさらにひどい。どこもかしこも廃墟と化していました。ただ旧大夕張駅にラッセル車と客車数両が保存展示されているのは嬉しいことでした。誰も監視人などいません。勝手にドアーを開けて乗り込んで、客車の座席に座れるのです。
大夕張の駅からはそびえ立つシュウパロ湖ダムの堰堤が望めます。それを右手に見ながら長ーいシュウパロトンネルを越えると、広々とした人造湖に出ます。湖の向こうは雄大な夕張岳が広がります。
秋雨のシーズンを控えてずいぶん放水したと見えて、かなり干上がっています。湖の中に湖底に沈んだ鉄橋のアーチが半分くらい姿を表しています。あの橋のあたりがかつて殷賑を極めた大夕張の高野炭住が建ち並んでいたあたりでしょう。
あとは湖の西岸を北に進み、三笠に出ました。
三笠と言ってもみんなあまり馴染みがないと思います。結局いくつかの炭鉱町が行政的に束ねられて三笠という名前になっただけで、大きな炭鉱で言うと明治からの幌内炭鉱、住友の奔別炭鉱、それに幾春別炭鉱です。
ここで一番の心残りは奔別炭鉱です。錠がかかった門の向こうには巨大なホッパーと選鉱場、ボタ山などが立ち並んでいます。門の前の地図を見ると正門の脇の道を登っていくと炭住や旧炭鉱病院が軒を連ねる一角があったようですが、今では立入禁止となっています。坂の途中から見下ろすと、建物群の奥行き、巨大さがよくわかります。
いずれここはもう一度訪れてみたいと思います。