鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

フリッツ・リップマンの自伝から
1918 軍医見習いとしてセダンに赴任。多くの戦病兵を看取る。
1919 戦地から戻ったケーニヒスブルクでインフルエンザが大流行。戦死者を上回る死者を出す中で数ヶ月にわたり治療に当たる。
1920 ケーニヒスブルク医科大学を卒業。臨床実習に入る。
21年 アムステルダム大学の薬理学教室で半年間の研修を受ける。この時、生化学の道に進むことを決意。ふたたびケーニヒスブルク大学に戻る。
27年 国家試験に合格。ベルリンのKW研究所のマイヤーホフ研究室に入る。クレアチンリン酸の研究を開始。この間、ノイベルクの研究室にも顔を出す。
29年 研修期間切れとなったリップマン、ハイデルベルクを離れベルリンに戻る。彼女のいるベルリンに戻りたかったのが本音らしい。
30年の6月にアルベルト・フィッシャーの助手ポストを見つけてベルリンに戻った。しかしすでにユダヤ人に対する迫害は始まっており、リップマンも暴行を受けた。
31年 フィッシャーのコペンハーゲンへの異動に伴い米国に渡る。ロックフェラー協会で1年間の研修。
32年9月 アメリカからロンドンに移る。ここでエムデンとの手紙による交流が始まる。エムデンはこの交流をもとに解糖の全経路を書き上げ、これをエムデン・マイヤーホフ経路と名付けた。(earned him rightly the companionship in the names of the Embden-Meyerhof pathway for the glycolytic cycle)
リップマンによれば、この仕事を実質的に行ったのはエムデンの弟子ゲルハルト・シュミットだった。
ゲルハルト・シュミットについては下記の本が出されている。
Out of Nazi German in Time, a Gift to American Science: Gerhard Schmidt, Biochemist
32年末 アルベルト・フィッシャーの居たコペンハーゲンに移る。7年間のコペンハーゲン時代にピルビン酸の酸化に関する業績を上げる。
39.6 迫りくるナチの侵攻を前にアメリカに亡命。2年間の浪人のあとボストンのMGHに職を得る。
スクイグルという奇妙な言葉は、エネルギーに富むリン酸結合(C~P link)のことらしい。
このあとの話は省略。
ということで、注目するのはただ一つ。32年秋に注目すべき実験結果があり、それにより解糖経路のミッシングリングが解決したこと。それを元にいくつかの補足実験を行ったあと、エムデンが解糖経路の最終案として提示したこと、その際にエムデンみずからが「エムデンマイヤーホフ経路」と名付けたこと。
である。
ただしこれはリップマンが自伝の中で語っていることであり、エムデンの原著を確認したわけではない。
33年にエムデンを主著者として発表されたらしい。「白鳥の歌」ということになる。

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