エムデン・マイヤーホフの「エムデン」て知ってますか。

エムデン・マイヤーホフ経路というのは標準的な解糖経路として誰知らぬものはないほど有名です。

ただ年表好きの私としては、エムデン・マイヤーホフの経路、およびその名称がいつ確定されたのかを知りたくて、何気なしに調べたのですが、まったく見当たりません。

さらにエムデンがどういう人なのかもまったく紹介されていません。

たしかに、そんなことを知らなくても別に不自由はないのでしょうが、「ちょっと教える身としては恥ずかしくないのか?」、などと思ってしまうわけです。

ということで、年表に組み込んでも良いのですが、一項起こしておきたいと思います。

1.英語版ウィキペディア

とりあえず英語版ウィキから。

フルネームは Gustav Georg Embden

1874年、ハンブルグの生まれだ。ついでに書いておくとマイヤーホフは10年後の84年にハノーバーに生まれているから、10歳年上ということになる。

父は法律家で政治家のゲオルク・ハインリッヒ・エムデン。祖母はシャーロット・ハイネといって詩人ハイネの姉妹だ。

各地の大学で生理学を学び、1904年、30歳でフランクフルト・ザクセンハウゼン州立病院の化学検査部長に就任している。

3年後に彼の研究の業績は検査部を生理学研究所へ、1914年には「栄養生理学の大学機関」(University Institute for Vegetative Physiology)へと発展させることになった。

また14年からフランクフルト・アム・マイン大学で教鞭をとるようになっている。

1925年、エムデンはこの大学の学長となった。

というのが立身出世の物語。

次が研究内容の紹介。

彼の主たる活動の場は糖代謝と筋収縮の関係であった。

彼は最初にグリコーゲンから乳酸に至る諸段階を一つの経路として提起した人だった。

1918年にマイヤーホフは糖が乳酸に壊れていく(Breakdown)と提起した。そのあとエムデンは、その仔細な段階を明らかにすべく研究した。
ウィキにはもう一つのエピソードが載っている。

エムデンは12回もノーベル賞にノミネートされたが、結局受賞には至らなかった。

ただしこれは当時の通例だったようで、ワールブルグも31年の受賞まで46回もノミネートされている。

結局、エムデン・マイヤーホフ経路という名称をいつ誰がつけたのかは、英語版でも不明である

2.
フリッツ・リップマンの回想
このあたりの裏事情というのは、フリッツ・リップマンが書いた回想録に書かれている。Wandering of a biochemist(1971)という自叙伝も刊行されているようだ

個人的なEMBDENとMEYERHOFの間の接触は事実上ゼロだった。例えば、私はシュミットやエムデンらと一度も会わなかった。

ところがリップマンがマイヤーホフの下を離れて解糖系の研究を続けていたとき、エムデンがリップマンを取り込んだらしい。リップマンは元同僚のローマンと計って、エムデンを売り出し、エムデン・マイヤーホフ経路なる言葉を作り出したのではなかろうか。

3.
渋めのダージリンはいかが
ようやく日本語文献を見つけました。上記のブログです。かなり年表のネタが混じっています。
1933 エムデンはヒトラー・ユーゲントの乱入で講義を妨害され、自宅に引きこもって失意のうちに病死した。

それからというもの、この細胞内シークエンスはエムデン・マイヤーホフ経路と呼ばれるようになった。

ただし命名の顛末については下記の1行のみ

エムデンとマイヤーホフはまさしくライバルであり、非常に仲が悪かったようです。

このブログでリンクしている下記のページに行ってみました。

Kagaku to Seibutsu 53(11): 792-796 (2015)

に掲載された木村光さんの「オットー・マイヤーホッフのヒトラーとナチスからの逃脱―ピレネー越えの真相」というエッセイです。

文章の主題であるマイヤーホフの劇的なドイツ脱出についてはここでは触れない。

4.マイヤーホフとエムデン

エムデンは乳酸生成が筋収縮にやや遅れて生ずるとして,マイヤーホッフの乳酸学説を批判した。

彼はグルコース(C6化合物)が,2つのC3化合物に開裂する過程を考察した.

エムデンは自分が作った理論モデルを検証することなく亡くなった。その後の5年間にマイヤーホッフ一派により,エムデンのモデルが検証された.

そのため,解糖系は“エムデン・マイヤーホッフ経路”と呼ばれる.

つまり“エムデン・マイヤーホッフ経路”と名づけられたのはエムデンの死後だったんですね。そして名付けたのはマイヤーホフと弟子たちだったんですね。
ただこれでも名称の初出と、最初の提案者が分からない。

ついでに木村さんのページから写真を転載させていただく。1949年に米国で撮影されたものだそうだ。木村さんがマイヤーホッフの長男からもらったものだそうである。

seikagakusha
左から右へ.コーレイ(S. Corey),ナハマンゾーン(D. Nachmansohn,自らマイヤーホッフの息子を名乗る),バーク(D. Burk),セント=ジェルジ(A. Szent-Györgyi,ビタミンC,Pの発見で,1937年ノーベル賞),ワールブルグ(O. Warburg,呼吸酵素で,1931年ノーベル賞),マイヤーホッフ(O. Meyerhof,筋肉の乳酸学説で,1922年ノーベル賞),ノイベルグ(C. Neuberg,メチルグリオキサール説その他で発酵化学に貢献),ウォルド(G. Wald,マイヤーホッフの弟子で,目のビタミンAの研究で,1967年ノーベル賞)

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