生物の起源を遡って勉強してきたが、その中で感じたことを書き留めておこう。

生物というのは、ただの生命ではない。生命が細胞という形をとった「生命の一種」である。

それはLUCA(共通祖先)までは遡れるが、それより前に細胞という形に至らない「生命活動」があったことは間違いない。「細胞」という存在は、生化学的・生物物理学的に見れば、あまりにも完成されているからである。

ただそのありさまは想像の範囲を出ない。そこには、3つの要素があったであろう。

① 膜の形成と囲い込み、② 代謝、これは2種類に分かれる、a エネルギーの獲得と利用、b 体成分の合成と異化、③ 増殖

である。

そして①→③の道筋をとって生命が進化したことも間違いないと思う。

すなわち膜の形成こそが最大の要素である。そのチャンスは高温高圧下、エネルギーが溢れかえり、分子が次々に衝突し、化学反応が密集する条件のもとでしか実現しないだろう。確率論的な話だが…

(かと言って、深海底の熱水湧出孔が生命の出自だというのではない。地球誕生直後の重爆撃期に、早くも「生命」が登場した理由を説明しているのである)

膜の形成以前に、さまざまな無機的な化学反応があった。マンガンなどの触媒を中心に、化学反応群が継続して発生するクラスターがいたるところに形成される。

それがある日、膜をかぶり他所とのあいだに境を作ることになる。膜内では有効成分の濃縮が起こる、無効成分の排除が起こる。

こうして代謝経路が積み上げられ、完成していくことになる。またアミノ酸や核酸の合成経路も組み込まれることになる。

②bと③については、RNAワールド論争の渦中にある。まだ不明なことが多く、語るに至っていない。

こういう理解は、実はオパーリンのコアセルベート・ドグマそのままである。

日進月歩のこの世界で、1927年に提起されたこのドグマがいまだに真理性を保ち続けているのは、驚異的であると言わざるをえない。

ついでに言っておきたいのは、このような生命の生成から定着へと至る発展過程の論理が、人類社会の発展過程にも適応できないだろうかという着想である。

まぁ、いわばマルクスの史的唯物論の発展型バージョンである。

ヒトは小魚の群のように群れて泳いでいたのが、膜を作ることにより安定し、定着し、密度を上げることにより膜内構造を作り始める。

やがて光合成装置を取り込むことにより、農耕社会へと入っていく。

そこへ荒野の彼方から真核生物がやってきて、人々を村ごと飲み込んでしまう。彼らは細胞内に農耕民を住まわせる一方、核膜の中にみずからを隔離し、王として君臨する。

と言った具合だが、ここから先はダボラ話になるのでやめておく。