鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

の抜書(コピペ+私感)である。元ネタがお手軽というわけでは決してない。

Ⅰ リカードの「価値論」の意味

リカードは、スミス価値論の継承者である。彼はスミスの労働価値論を受け継ぎながら、そこにふくまれる曖昧さを排し、それをいっそう純化させた。そして、労働価値論を駆使して、「生産物の諸階級への分配に関する法則」を解明した。

リカードのスミス批判の意義は、個人がどんなにあがいても貫徹する経済の客観的法則を提示するという点にある。

スミスの命題には、個人の行動結果から類推して、それを経済全体の結果であるかのように見なすところがある。しかし経済法則を客観的に適用すれば逆の結果になる。

そこをリカードは示したのである。

という岡さんのコメント。スミス研究者から見れば、いささかカチンとくる叙述となっているかも知れない。


Ⅱ リカードはスミスから何を受け継いだのか

リカードがスミスから受け継いだのは『労働価値説』である。

リカードは、「原理」の中でスミスの所説のポイントを引用し、コメントしている。

1.交換価値(価値)と使用価値(効用)

価値が二つの側面を持っていることについて、リカードは完全に同意している。

スミスからの引用

「価値という言葉には、2つの異なる意味がある。それは、ある時はある特定の物の効用を表現し、またある時はこの物の所有がもたらす他の財貨の購買力を表現する。一方を使用価値 、他方を交換価値と呼ぶことができる」

「最大の使用価値をもつ物が、交換価値をほとんど、または全くもたないことがしばしばある。これに反して、最大の交換価値をもつ物が、使用価値をほとんど、または全くもたないことがしばしばある」

後段の引用は「水とダイヤモンド」の挿話へと続くところである。

リカードのコメント

したがって、こう言える。

効用(使用価値)は交換価値を持つための必要条件ではあるが、効用は交換価値の尺度ではない。

ということで、話を労働の交換価値に絞ることを宣言する。

2.労働は交換価値の源となる

交換価値というのは「ある物の所有がもたらす他の財貨の購買力」であるから、その購買力の源は何かということになる。

スミスからの引用(ちょっと長い)

「あらゆる物の真の価格は、それを獲得する際の苦労と手数とである。それを欲する人に真に費やさせる物である。

ではそれをすでに取得していて、それをなにか別の物と交換したいと思っている人にとっては、それの値打ちとはなんだろうか。

それは交換によって節約することができ、他の人々に負わせることができる苦労と手数とである」

「未開の状態での相互交換に際して、物の取得に必要な労働量の多寡は、交換のルールを与える唯一の事情である。

一頭のビーバーを仕止めるのに費やされる労働が、一頭の鹿を仕止めるのに費やされる労働の二倍だとする。

そうすると一頭のビーバーは、当然二頭の鹿と交換されることになる」

この2つとも前回の奥山論文で紹介されているおなじみのところである。

スミスはここで一つの定式を打ち出す。
「商品にふくまれる労働量がその交換価値を規定するのである。

だとすれば、労働量の増加は必ず商品の価値を上昇させる。逆に、労働量の減少は必ずその価値を低下させるにちがいない」

リカードからのコメントはとくにない。ここまでの論理(投下労働=価値)について、リカードは全面的に受け止めたとみられる。

Ⅲ リカードはスミスの何を批判したのか

ところが、このあとスミスは価値標準について違う考えを持ち出す。

物の価値は、「それと交換される労働量」あるいは「それが市場で支配する労働量」によっても決まると言ったのである。

「何が“あるいは”だ。ぜんぜん違うじゃないか」とリカードは噛みついた。

リカードは「支配労働」論を認めなかった。そして「ここにスミスの混乱がある」と指摘したのである。

リカードはスミスの混乱の理由を、投下労働論を「初期未開の状態」に限定したことに求めた。「初期未開の状態」に通じることなら発達した社会にもそれは通じるはずだ、というのである。


1. 労働以外の生産手段の価値

ここからあとは、奥山さんの解説とだいぶ話が違ってくる。とりあえずそのまま紹介する。

私感: 労働以外の生産手段の価値についてはスミスにあっては曖昧であった。それらも「労働している」かのような擬人表現が見られる。生産と労働を混同した「労働」原理主義である。これは大地と日光が農作物を育て価値を生み出すという、重農主義の影響もあったのではないか。

リカードはスミスの「労働」原理主義に込められたすり替えを見逃しはしなかった。

ここにリカードは「時間差」というか「経時的観点」を持ち込んだ。リカードは言う。
労働と並んで使用される材料や器具や機械もまた、財貨の価値に貢献する。

それは、それらの材料や器具や機械の生産において投下された労働の量に応じてである。材料や器具や機械は過去の労働の産物である限りにおいて価値にふくまれる。

こうして、過去の労働を持ち込む形で、材料や器具や機械を労働価値説に取り込むことができたのである。

私感: 生産過程においては原材料は「使用価値」として加わるのであって、価格実現過程の話と混同してはいけないと思う。価格実現の話も、その前にまず剰余価値の配分の話を片付けてから取り掛からないとならないと思う。これらはいずれもう少し勉強した上で語ってみたい

② 地代や企業主の才覚の評価

スミスが主張した「労働原理主義」はリカードにおいても受け入れられたのである。ただし「支配労働」の否定という形をとってであるが。

スミスが“苦し紛れに”考えだした「支配労働」は、生産手段が過去からの労働の蓄積であるという考えをすれば、そんなものまでごたまぜにしておばけみたいな労働形態を考える必要はなくなる。

そうなると、支配労働のもう一つの要素である地代や企業主の才覚の評価が問題になる。

これについては、リカードはもう一つの素晴らしいアイデアを考えついた。それは「差額地代論」という理論である。
肥沃な土地は稀少である。だから肥沃でない土地も耕作せざるを得ない。
肥沃でない土地では、同じ量の穀物を生産するのに、より多くの労働の投入が必要となる。
穀物の価格は、最も劣った土地での投下労働量によって決まる。
なぜなら、穀物の価格がそれよりも低いと、最劣等の土地での農業は赤字になり、生産が続けられなくなるからである。
逆に、優等地の穀物は労働量(すなわち価値)を超える交換価値を市場において獲得することになる。したがって、優等地での生産は超過利潤を生む。

その結果、農業経営者間の競争が優良な土地にプレミアムを生むことになる。これが差額地代となる。
地代は農地の豊かさの証明ではなく、農地の相対的な貧しさの反映なのである。
それはマルクス流にいえば、労働の節約による「相対的剰余価値」の変形となる。
これがリカードの地代理論(差額地代論)である。

それではスミスはどう考えていたかというと、

農業では、自然(地力など)や家畜が人間と並んで労働をしていると考えた。そしてそれらが、人間の労働と同様に価値を生み出すと考えた。

そのゆえに、それらをふくめた“労働”の価値として地代が生じると考えた。

この素朴なアニミズムが「支配労働」説のオリジンであったのかもしれない。
リカードは差額地代論を練り上げることで、「支配労働」説の神話的根拠を突き崩したといえるだろう。

さらにいえば、リカードの差額地代論はケネーの農本主義的再生産表の根拠にも侵食しているといえる。

私感: 「差額地代論」はあまりにも鮮やかな一本背負いであるが、それだけに論理だけに寄り掛かるモロさも内蔵している。
これは一口で言えば、“マイナスの労働価値”である。肥沃な土地は生産物をより少ない労働で獲得することができる。この「労働の節約」分がいわゆる超過利潤となり、地代の源泉となるというのである。
ただしこれは究極のところ肥沃でない土地での労働によりあがなわれるので、労働価値の直接の反映ではない。
またそれは生産・分配過程の外で行われるものであり、別途論じるべきものではないだろうか。
リカードはそのあたりにまで考えが回っていなかった可能性がある。

このようにして、リカードはスミスの論理を使ってスミスの「支配労働」を否定した。

これにより原材料や生産手段が価値論に組み込まれ、同時に地代は価値の構成部分からは排除されたことになる。

Ⅳ 労働価値説に基づいた分配理論

ここから先は、スミスの継承というよりリカードが独自に開拓した理論となっていく。

スミスの論理を投下資本オンリー説で再構築していくと、価値はどのように分配されるか。

リカードはこれを賃金、利潤、地代に分けた。これはスミスの価値分解説を踏襲したものである。

賃金はまずもって生存賃金である。それは労働者の生存と再生産を可能にするために必要な生活物資の価値に等しい。

利潤は生産物の価値から、労働の賃金と他の生産手段の価値とを差し引いた残りである。これが資本家階級の所得となる。


リカードは利潤と賃金がトレード・オフの関係にあると提起している。

そして資本主義が発展すると、利潤率は低下する。

これは以下のようなメカニズムで説明されている。

資本が蓄積され、人口が増えると、穀物需要が増える。

それは耕作限界の拡大をもたらす。つまり、肥沃さの劣った土地が生産に引き入れられる。それは穀物の価値の騰貴をもたらし、それが優等地での地代を生む。穀物価値の上昇は、賃金を上昇させ、利潤を低下させる。

利潤がゼロになったとき、資本蓄積は止まり、人口も定常状態に達する。このとき、利潤はゼロ、賃金は相変わらず生存水準で、地代は最大になっている。これがリカードの描く分配の動学である。

私感: これが本当だったら、人類はとうの昔に破滅していたはずで、どこかに誤りがある。
リカードの差額地代論は、地代を賃金・利潤と同一カテゴリーに置くべきでないことを示唆している。また価値と交換価値のより厳密な使い分けを求めていると思う。

リカードの忠実な使徒だったマルクスはこの問題で悩んだ。

搾取者に弔いの鐘はならなかったし、搾取者が搾取される革命も起きなかった。

この結果を見て、マルクスはリカードを離れ、独自の道を模索するようになった。

これについてはまた別な文献で勉強しなければならない。

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