多少お神酒が入ったところで、もう一度アダム・スミスを語る。

アダム・スミスは画期的な労働価値説を打ち出しながら、「支配労働」というゴミ箱的概念を持ち込むことで、最終的には月並みな「生産費説」(価格=費用価格+平均利潤)に落ち着いてしまった。

労働価値説は生産費説を飾るちょっとおしゃれな彩りにしか過ぎなくなってしまった。

その背景には、①なんでも労働価値という「原理主義」、②これを背景にした「支配労働」論、③「支配労働」論を背景にした「自然価格」論(労働価値=すべてのコスト)という論理上の三段跳び(というか三段落ち)があった。

ところで「支配労働」は、利潤の源泉を労働に求めつつ、利潤と賃金の矛盾をなんとか説明しようとしたところから生まれたトリッキーな議論ではないか。

なぜなら搾取(人為的)を前提とする「自然」価格などあり得ようがないからである。

もう一つは、比較的小さな問題だが、地代まで労働の産物としてふくんでしまったことである。だれでも「流石にそれはないでしょう」ということになる。

ここでリカードゥが立ちはだかった。支配労働なんてくそくらえだ、と。

地代については「差額地代論」で整理がついた。それは利潤論へもつながる論理であり、支配労働論への痛烈な一撃だった。

それでスミスが覆い隠そうとした利潤と賃金の矛盾が、あからさまになってしまった。利潤というのは資本家が生産→販売という過程に紛れ込ませた「詐取」なのではないか、ということになる。

という展開になるのではないかと思うが、まずは勉強だ。

で、勉強は明日だ。もう頭は回らない。アルコールだけが回る。