奥山忠信 「労働価値論の思想と論理-アダム・スミスの遺産」政策科学学会年報 第4号

前項の宮川論文では、議論の前提となるスミスの理論についてさっぱりわからず、読解に大苦労した。
この論文はマル経のものではないが、その分、マルクスの小難しい表現に悩む必要がないだけ読みやすいだろう、と期待して読むことにする。
見出しは、原文の目次を無視して私が勝手につけたものである。
需要曲線と供給曲線における限界効用理論と限界費用曲線に関する問題を考え直すために、アダム・スミスの考察を中心に、古典派労働価値論の意義を再確認する。
ということなので、「古典派労働価値論の意義」のところを読めば、後半の「需要曲線と供給曲線における限界効用理論と限界費用曲線に関する問題」は読まなくて良いだろうと、ずる賢い発想。

Ⅰ はじめに 労働価値論の見直し
主流派の経済学は、伝統的に需要・供給曲線を書くところから始まる。そして需要曲線の右下がりの理由を「限界効用逓減の法則」に置く。
しかし仮に限界効用の逓減が正しいと仮定しても、これは消費の特定の場面での話であって、生産過程をふくめて経済活動全体を見渡したものではない。

アダム・スミスやマルクスの経済学に登場する資本家の行動はこのような限界理論とは異なる。
古典派経済学では、市場価格は需給関係で変動するが、自然価格は一定である。需要曲線がどのようにシフトしても、生産費によって自然価格は規定される。
資本は、価格が上がったから供給量を増やすのではなく、利潤量や利潤率を基準に供給量を増減したり、他部門に移動したりする。
だから自然価格は供給量や需要量とは無関係に一定である。(まぁ、相対的には影響を受けにくいということでしょう)
労働価値論は、現在の経済学においては異端派である。
しかし、本稿は、今日の経済学の説く価値論に強い疑問を持っている。
実体経済を考慮すると、むしろ、労働価値論や生産費説をベースとした古典派の価値論の方が現実性を持っているのではないか、と考える。
良いですね、この滑り出し。

アダム・スミスの労働価値論は、1776年に刊行された『国富論』に展開されている。
これまでスミス価値論は投下労働と支配労働の関係、価値分解説と価値構成説の関係で混乱しており評価に耐えないとされてきたが、いま、一定の再検討が求められているのではないか。

Ⅱ アダム・スミスの労働価値論 概要
1.重商主義者とスミス 労働価値論の出発点
スミス価値論を理解するためには分業論を知らなくてはならない。スミスはいう。
分業社会では、人々は商人的な性格を帯びる。相互に利己心を刺激つつ、互いに自分の欲するものを獲得する。だから交換は人間の本性に根差しているということができる。
(論旨とは無関係だが、この記載は利己心を人間の本性とする点でほとんどナンセンスだ。利己心は自己防衛本能とはまったく異なる。利他心と同様に歴史的なものだ)
もともと交換には相互需要の不一致という困難がつきまとう。この困難を解決するために、人々に広く受け入れられる商品を手元に保有しておく必要がある。
それが貨幣である。
この場合、手元に置く貨幣は富として蓄えられているわけではない。
それは購買手段として用いるために、一時的に手元で保存された価値なのである。
このあたりちょっと複雑だが、
スミスは重商主義者のように、富(自己目的としての致富)としての価値保存機能を説いているわけではない。
しかし、貨幣が流通手段(交換の道具)として機能するためには、少なくとも一時的には手元に置いておく必要があることを認めている。その限りでは価値保存機能(マインドもふくめて)も残されているといえる。
スミスは貨幣を、商業社会=文明国の普遍的な「商業の道具」と定義する。そこには、貨幣を「富」とする重商主義に対する批判の意味がある。
スミスにとっての富は、貨幣ではなく労働生産物である。
このあと、奥山さんの記載でちょっとわかりにくい一節がある。
スミスはリカードゥから貨幣数量論だとして批判されているが、それは誤解である。貨幣数量論はヒュームの主張したものであり、スミスはこれを批判している。
ヒュームら貨幣数量論者は、中南米から流入する金銀の増加が貨幣量の増加をもたらしたと説くが、スミスは支配労働の下落による貨幣価値の下落が物価を上げた、と説く。
これは何よりも明確な貨幣数量説批判になっている。
貨幣数量論についてはいずれ機会があれば検討することにする。支配労働については後で触れることにして、次に進む。

3.「国富論」第4章での予告的紹介
貨幣を論じた『国富論』第4章は貨幣論であるが、その最後に、第5章以降の価値論がざっと紹介される。
労働生産物の交換には自然のルールがあり、それが商品の相対的価値あるいは交換価値を決定する。こ
の法則の研究が必要だという。
それはマルクスがスミスを乗り越えつつ目指したものでもある。
① スミスの労働価値論における「自然のルール」
スミスは価値を2つの意味に分ける。
第1に使用価値(value in use)であり、第2に交換価値(value in exchange)である。
使用価値とは、使用に際しての有用性(utility)である。
これに対し交換価値というのは、財の所有を譲渡して他の財を購入する力である。
この辺は資本論の最初のところですね。しかし交換価値の規定はなかなか難しい。難しいということは、曖昧さをふくんでいるということにもつながる。
② いわゆる「水とダイヤモンド」問題
水ほど有用なものはないのに交換価値を持たず、ダイヤモンドは使用価値を持たないのに高い交換価値を持つ。
それはなぜか。
ダイヤモンドの美しさが価値を持つのではない。その使用価値が特殊な故に、人々が獲得するための困難を厭わない、ということに裏づけられている。
希少性や審美性は、より多くの労働に裏づけられて、高い価値を持つのである。
宝石は装飾品としてのほかは何の役にも立たない。その「美しさ」と言う値打ちは、その希少性によって、つまり鉱山から取得する時の困難さと費用によって定まる。
この辺はもう少し言い換えてみよう。
希少性について: ダイヤモンドは希少であるが故に価値を持つわけではない。希少であるが故に、より多くの労働に値するから価値を持つ。
審美性について: ダイヤモンドが使用価値を持たない、ということの意味は、衣食住のレベルの人間生活には役に立たない、という意味である。
美しさの持つ使用価値を否定していたわけではない。
この辺は、人間的欲望(の高次化)との関係で語るとより中身が豊富になりそうだ。

4.「国富論」第5章 生産物の価格について
次が第5章の価値論である。ここから少し話が難しくなってくる。
第5章のタイトルは以下の通り
「商品の真の価格と名目価格について、すなわちその労働による価格と貨幣による価格について」
つまり商品の「真の価格」は労働によって決められるが、それが貨幣で示されたのが名目価格ということであろう。
① 労働の量が価格の根本
スミスは生産につぎ込まれた労働の量が価格の根本だと言っているのである。
「世界のすべての富がもともと購買されたのは、金や銀によってではなく、労働によってである。
したがって、労働能力を所有する人が、労働と交換に何か新しいもの(商品)を得ようとする時、彼の労働量は購買できる価値と正確に等しいのである」
スミスはこれで、商品の不変の価値尺度をめぐる論争に確固とした方向性を与えた。
② 労働の多様性をどう処理するか
スミスは労働の多様性についても、時間、強度、難易度などは社会的な平均労働に還元できるとした。それは「市場での交渉や取引」によって、大まかながら調整されるのである。
その根拠となったのが「分業の進展による労働の単純化」である。
ここまではまったくその通りで、すばらしい。
5.投下労働と支配労働
ここから投下労働と支配労働の話が始まる。投下労働についてはまったく問題ないが、支配労働というところからおかしくなってくる。
とにかく読み進もう。
分業の進展により単純化された労働は、商品を生産するのに必要な労働である。これを投下労働という。
「あらゆるものの実質価格は、それを獲得するための労苦である」
俗っぽく言えば、労働の負担(cost)が実質価格(real price)なのである。

スミスの労働にはもう一つのカテゴリーがある。それが支配労働である。
支配労働は、分業と交換の社会において特別な意味を持つという。それは労働に何をもたらすか。
スミスはそれを自分の労働の節約として根拠付ける。なぜなら、労働は苦痛であるばかりではなく、安楽や幸福の放棄でもあるからである。
「彼自身の労働を節約でき、また他人に課すことができる労苦」
とされる。
これはどう考えても不適切なカテゴリーだ。マルクス流にいえば労働ではなく「搾取」だ。
スミスはあらゆるものを「労苦」の成果と考える。ある意味では正しいのだが、言い過ぎだ。
彼は生産手段も原料も地代さえも先人の「労苦」の賜物と考える。だからそれを利用することは他人の労働の成果を「支配」することになるのだ。
ここまで行くと、さすがに常識はずれの「労働」原理主義だ。ただ奥山さんの解説がやや舌足らずになっている可能性もある。
ただ、「労働は苦痛であるばかりではなく、安楽や幸福の放棄でもある」という主張は示唆に富むところがある。おいおい検討しなければならない。
とりあえず、支配労働については保留して先に進む。

6.貨幣がなぜ必要なのか
このようにして購買と販売は、等量労働の交換に帰結する。スミスは労働を「本源的な購買貨幣」と呼ぶ。
それでは、労働という真実尺度があるにもかかわらず、貨幣がなぜ必要なのか。
貨幣という名目尺度が必要となる理由をスミスは次のように説明する。
第1に、「異なる労働の比を尺度するのは困難である」からである。
たしかに労働の交換は理屈では分かるが、社会的平均労働を個別の交換に当てはめるのは難しい。
第2に、商品は労働と交換されるよりは、商品と交換されることが多いこと。
奥山さんは次のようなコメントを加えている。
それに商品や貨幣は手でつかめるわかりやすい対象物であるが、「労働」というのは抽象的概念であり、自然で明白だとは言えないのである。
たしかに常識的には正しいことだ。ただあまりにも常識的というか、皮相な捉え方ではないかとも思える。

Ⅲ 労働価値論と支配労働説
1.価値分解説と価値構成説
いよいよここから価値分解説と価値構成説の問題に入る。
まず、奥山さんによる定義から
価値分解説: 価値分解説とは、商品の価値は労働によって作られ、労働によって作られた価値が、賃金、利潤、地代に分解される、とする見解である。
価値構成説: 価値構成説とは、商品価値は、賃金、利潤、地代の合計によって成り立つ、とする見解である。
見ての通り、基本となるのは価値分解説であり、価値構成説は「逆もまた真なり」という若干安易な論理である。
ただ後の議論では、価値構成ではなく価格構成説となっているので、かなりややこしくなる。

2.「支配労働」概念の挿入
スミスの「国富論」の「第6章 商品の価格の構成部分について」の説明を見てみよう。
まず、初期未開の社会におけるビーバーと鹿の交換事例が例示される。
ビーバーを捕獲するのに鹿を捕獲する際の2倍の労働が費やされるとすれば、1頭のーバーは2頭の鹿と交換される。
この場合、交換に参加した狩人たちの労働は純粋な投下労働である。
次に資本家の登場する世界、すなわち資本主義社会である。
そこでは労働だけが唯一の交換の事情ではなくなる。資本家の監督や指揮が、労働者の労働に付け加えられる。したがって、利潤は労働の量には比例しない。
これに加えて、地代が賃金と利潤に続く第3の構成要素となる。
これが価格構成論である。
価格のさまざまな構成要素のすべての実質的な価値は、それらがおのおの購買あるいは支配することのできる労働量によって測られる
とスミスは述べる。
ここから迷走が始まる。「価値」を構成するのは投下労働ではなく、支配労働だというのである。
支配労働とは何か。
価格の中の労働(投下労働)だけではなく、土地の部分、利潤の部分も労働の結果としてみなければならないということだ。「購買できる労働」というのは設備や原材料のことだ。「支配できる労働」というのは労働者を賃金以上に働かせること、つまり他人の労働の「搾取」だ。
これらの要素も、遡及すれば賃金と利潤と地代に分解されるからだ。

3.スミスのドグマ
これがマルクスの言う「スミスのドグマ」だ。
『資本論』、第2部第3篇第19章第2節「アダム・スミス」にこのことが記載されている。
マルクスは「 v+m のドグマ」と批判している。
(スミスにおいては)生産手段部分が消えて、賃金部分(可変資本 v)と剰余価値(m)だけが商品価格になってしまう
と皮肉っている。(あくまでも皮肉である)
ドグマとは独断ということだが、それなりの根拠を持っているので「原理主義」あるいは「暴走」という方が適当だろう。
スミスはここから支配労働の枠を無限に広げていくわけだが、もともとは、この支配労働と投下労働との差分が利潤になるという理屈を持ち出すための概念だと考えてよいのだろう。
いずれにしてもかなり無理があることは間違いない。
奥山さんは支配労働についてわかりやすく例示している。
例えば、労働者が1日に10時間労働して、10個のパンを作ったとする。この内、労働者は8個のパンを消費すれば1日の生活が成り立つとしよう。
8個のパンの投下労働時間は8時間である。資本家は、8時間労働のパンに相当する賃金で、労働者の10時間の労働を支配したことになる。
10時間から8時間を引いた2時間部分が余剰であり、これが利潤の源泉となる。
このスミス独特の剰余労働論と、その根拠となる支配労働の否定(リカードゥ)のジレンマの中からマルクスの剰余価値論が生まれてきたといえる。

3.価値構成説の問題点
① リカードゥの価値構成説批判
価値構成論の論理の危うさは、リカードゥに厳しく衝かれることになる。それが「賃金・利潤相反説」である。
そもそもリカードゥは支配労働を認めず、労働価値論を投下労働価値説で一貫させた。
その場合、賃金が上がれば、商品の価格が自動的に上がることになる。
価値分解論を正しいとすれば、賃金と利潤と地代のうち地代は不変であるから、賃金が上がれば利潤は減ることになる。
これはつまるところ労働価値論からの乖離ではないか、というのである。
② リカードウの『経済学および課税の原理』
第1章は、「価値について」と題されている。
その第1節のタイトルは、次のようなものである。ずいぶんと長い。
「商品の価値、すなわち、この商品と交換される何か他の商品の分量は、その生産に必要な労働の相対量に依存するのであって、その労働に対して支払われる報酬の多少には依存しない。」
むずかしいが重要な提起である。こういうのが続くと、当方の頭はたちまち豆腐状態になる。
私なりに解説してみる。
報酬というのはスミス風に言えば投下労働であるが、結局これは貨幣化された過去の労働であろう。
報酬の「過去」がどうであっても、この度の生産には関係のない話である。あくまでもこの度の生産に投下された「投下労働」が価値を決めるのだ。
であれば、賃金も利潤も、「労働量によって決定された価値量をどう振り分けるか」という事後の問題でしかない。
賃金や利潤の変化が商品の価値を変えることはないのである。
価格は短期的には別問題だが、長期的には価値法則に従わざるをえないだろう。というのがリカードゥの見解である。
③ マルクスの見解
たしかにこの賃金・利潤相反説は、我々にとって大いなるジレンマである。
マルクスはこれを拡大再生産により切り抜けようとした。
仮に賃金が上がり、商品あたりの利潤率が下がったとしよう。しかしその場合でも、商品の販売量が増えれば利潤量は上がり賃金増をカバーできる。
もちろん販売量が増えなければこの論理は通用しないから、危うさをふくんでいることは間違いない。

Ⅳ 市場価格を規定する自然価格
むずかしい話もいよいよ終わりに近づいた。しかしこれまでの疑問点を足がかりにして理論が積み上げられていくから,ますます話がこんがらがってしまう。
奥山さんはこの章を以下のごとく要約する。
『国富論』の「第7章商品の自然価格と市場価格」の章は、市場価格による商品価格の現実的な動きと、それが収斂する重心としての自然価格が説明されている。
そのあと、いきなりわかりにくい言葉が並ぶ。
スミスは、賃金と利潤と地代のそれぞれに、需給の均衡状態を示す自然率があることを説く。そして、この自然率の合計を商品の自然価格と呼んだ。
しかしスミスの場合、原料や道具などの生産手段の価値は、賃金・利潤・地代に遡及的に解消されるので、この3要素の合計としての自然価格は、費用価格に利潤を加えた生産価格である。
市場価格は、供給量と有効需要の割合によって決まり、日々変動することが説かれる。
まぁ、一つの章を5,6行の文章にまとめること自体がそもそも無理なので、多少のわかりにくさはやむを得ない。「イヤなら原文を読め」と怒られてしまう。
とにかく私なりに読み解いてみよう。
スミスはここに来るまでに、2回危ない橋を渡っている。
最初は労働価値論における「労働原理主義」だ。最初に投下された資本以外はすべて労働の産物だ。だから設備も原材料もすべて労働に算入されてしまう。第二には、それらをひっくるめて「支配労働」という概念に集約してしまう。
その上で、支配労働にくくられた賃金、利潤、地代を今度は分解して、それぞれに価格付け(コスト算定)を行う。その合計が「商品の自然価格」というわけである。
したがって、スミスの言う商品の自然価格は、投下労働を真の労働と考える人にとっては実に奇怪なものとなる。
奥山さんが言うように
この自然価格論は、(結局のところ)いわゆる生産費説であり、ビーバーと鹿の交換事例のような労働価値論とは異なる。
したがって、論理不整合である。
私ならもっと露骨にいう。スミスの自然価格論は労働価値説を騙った、生産コスト=自然価格論でしかない。
せっかく労働価値説を発見しながら、現実の世界に妥協を続けて腰砕けになり、労働価値説の言葉で飾り立てた生産コスト=自然価格論に落ち込んでしまったのだ。


奥山さんの結論

アダム・スミスの労働価値論の思想と論理は、以下のように整理できる。

第1に、スミスにとって最も重要な概念は支配労働にある。
分業と交換の社会では、自分の行った労働そのものではなく、支配労働が価値の尺度になる。

それは、自分が行うべき労働を他人にさせる経済システムである。

第2に、支配労働は、投下労働を前提とした概念である。しかし同時に、投下労働こそが本源的な購買貨幣であり、労働なくして何物も得られないことも自明とされる。

第3に、支配労働は価値の真実の尺度であるが抽象的な概念で、現実の尺度財にはなり得ない。

これに対し貨幣は、それ自身の価値が変動する名目尺度に過ぎないが、多くの人々にとって馴染みやすい自然な尺度である。

第4に、資本の登場によって、資本家は資本量に比例した利潤を求めるようになる。利潤は労働と比例しない要素であるが、価格の構成要素となる。

第5に、こうした社会では、労働は唯一の交換の基準ではなくなる。労働者の付加した価値は、賃金と利潤と地代に分解される。

第6に、スミスにあっては、原料や道具も遡及的に賃金、利潤、地代に分解されるので、自然価格は、いわゆる生産費説(価格=費用価格+平均利潤)

自然価格論は投下労働という意味での労働価値論からの修正(逸脱?)である。

第7に、市場価格は自然価格から乖離するが、需給関係が調整されることによって、市場価格は自然価格に向かって調整される。

私の結論は、目下のところない。難しすぎて、理解も曖昧なので、もうすこし勉強してから。
感想としては、スミスの論理は、少なくとも前半は快調そのもので、非常に勉強になった。
これまでマルクスの独創と思い込んでいたものが、実は(萌芽的にではあるが)スミスによってすべて提示されていることがわかった。
マルクスは古典経済学の創始者としてのアダム・スミスに敬意を払いつつ、その後半の脱線部分を修正し、より首尾一貫としたものにしようと努力した。同時にスミスやリカードゥを投げ捨てたその後の経済学者に対し、その擁護者として立ち向かったということになろうか。