Ⅲ 資本循環論の仕上げ

1. 資本-収入転化関係の論点化

2.マルクスの資本-収入転化論への取り組み

3.貨幣を資本にするもの

4.貨幣を資本にするもの 宮川さんの説明

ここまでが前回記事。今回はⅢ章の後半部分。

5.第2稿の再生産論 その限界と混迷

次に第2稿の「再生産論」についての記述だ。

再生産論は資本-収入転化関係論から導き出されるらしい。したがって資本-収入転化関係論が誤っていれば、その誤りが再生産論にも持ち込まれることになる。
ところで、「資本-収入転化関係論」というのが分からない。しかしそこが分かっていないと、この先の議論はさっぱり見えなくなってしまう。
これについての説明はないのだが、前後の文脈から判断すると、資本家が貨幣資本を使って生産のための仕込みを行う過程のようだ。平ったくいえば労働者を雇い、原材料を揃えることだ。
これは購買活動であり流通過程の一部だ。それと同時に生産と次の生産の継ぎ目だ。これがないとピストンの上下運動は回転運動にならない。
ここは資本論の要諦をなすところだけに非常に難しいが、なんとかかじりついていこう。


宮川さんは、第1稿の再生産論にふくまれる問題(誤り)を次の二つにまとめている。

(a)「資本の費消」という不条理きわまる表記

(b)固定vs流動状態という機械的対立での資本・収入規定の認識

まず「資本の費消」について

第2稿第1章では、資本循環について触れられる。ここでマルクスは、資本循環G-Wが一般的商品流通と「絡み合う」ことを明らかにする。

これに続く第2,3章では,流通手段についていくつかの規定をおこなう。そこでは第1稿を引き継いで、スミスらの資本-収入転化把握を受け入れる。

その結果,以下にみるようにひどい混迷に陥った。

「貸し前された£5000の資本は,消費されている。それはもはや実存しない」(第2稿第2章) 

「可変資本として前貸しされた貨幣資本は、労働者たちによって収入の流通手段として投じられる」(第2稿第3章)

つまり資本が転化するところの労賃収入によって、(資本が)費消ないし消尽されてなくなる

ということである。

貨幣形態の固定vs流動状態という機械的対立 について

「貨幣はそれが流通するあいだには機能しつつある流通手段でしかない。貨幣がそれ以外の機能を発揮するのは貨幣が流通していない期間のみである」(第2稿第3章)

宮川さんはこの記述を以下のように批評する。

資本・収入規定と流通手段とが,固定と流動状態という排他的な対立関連で捉えられてしまった。

貨幣通流の感性的動きにとらわれた偏った一面的理解というほかない。

分かるような気もするが、今ひとつスッキリしない説明である。もう少し単純に言えるのではないか。つまり仕入れ活動により貨幣資本は非貨幣資本(労働力商品をふくむ商品資本)に姿を変える。しかし非貨幣資本といえども購入された商品であり、商品としての流動性は持っている。
だから資本(貨幣資本をふくむ)において流動性で分類するのは間違いである。本質的な特徴は、再生産過程においては過去の生産物が資本であるということであろう。
どう表現すればよいのかは、またあとで説明があるだろう。

宮川さんはこれらの誤ちがどこに起因し、どう修正しなければならないかを下記のごとく述べる。

その克服には,古典派の貨幣ヴェール観を払拭し循環-再生産論の視点からの再構成が求められる。

しかしこれが分からない。

貨幣ヴェール観とは何か、循環-再生産論とは何か、「再生産論」一般とどこが違うのか…

宮川さんはさらに言葉を続けるが、ほとんどおまじないにしか聞こえない。

社会の諸資本の種々な規定(不変資本・可変資本,流動資本・固定資本,貨幣資本・商品資本,また貨幣の種々な諸機能など)での独自な自立的循環過程が相互に絡み合い条件付け合いつつどのように進行するか,ならびにこれと絡み合いこれを条件づける収入循環がどのように成就されるか,これらを明らかにする課題が,浮上する。

なんとか読み解くと、再生産論の主題としては

①社会の諸資本の独自な自立的循環過程の全体像

②諸資本の循環過程を規定するものとしての、不変資本・可変資本,流動資本・固定資本,貨幣資本・商品資本,また貨幣の種々な諸機能など

③諸資本の絡み合いと条件付け合い

④資本循環過程への収入循環の関与

などがあげられるらしいが…

たしかに、ここまで行くとこの論文の主題ではないな。

6.資本循環論 第5稿〜第7稿での3つの到達

第1,第2稿での資本循環論の誤りがどう克服されていったか。それがこの説では取り上げられる。

A) 貨幣と貨幣資本との取り違え錯誤の批判

マルクスは資本循環と一般的商品流通とのあいだにある重層性を把握した。

これによって,「貨幣資本」を構成する成分,すなわち「貨幣」と「資本」という二つの要素が、それぞれ独自の性格を持つことが明確に区別された。

そのことから、二つの要素を有機的に関連づけることが可能になったという。そう言われても分からない。

「貨幣機能を資本機能に転化することができるのは,この〔資本・賃労働の階級〕関係の定在である」(第7稿)

宮川さんはこう説明する。

これにより、「貨幣資本」にまつわる「二つの誤解」、すなわち貨幣機能を資本性格に起因させ,またはその逆に資本性格を貨幣機能に由来させる誤りが明らかにされた。

私ならこう書く。

賃労働と資本という社会関係が発生し、この中で貨幣に流通手段だけでなく、価値生み機能という「使用価値」が与えられた。

価値生みの働き(資本契機)をになう限りにおいて、貨幣は貨幣資本となる。(ただしこの表現が正確かどうかは保証の限りではない)

B) 商品資本循環図式の確立

資本と商品流通とを重層的に把握すると,それによって資本循環と個人的消費との絡み合いを適切に組み入れることが可能となる。

重層的、重層的というがどうやれば重層的把握になるのかが明らかにされない。

商品資本循環とは:

商品資本W’が再生産的消費および個人的消費の契機をみいだすことから出発する。

この循環図式においては、商品資本循環を社会的な総資本の運動形態として考察するよう求められる。

ここまではよいがその後のセンテンスが分からない。


こうして形態III (商品資本循環図式)が社会的再生産の考察のための唯一の図式として確定された。

説明はこれで終わりである。

C) 貨幣還流法則の成立

資本循環理解の前進によって貨幣還流運動が法則としてつかみ出された。

ふーん、そうですか

ケネーやマルクス自身の「経済表」の考察の際には,形態的循環を表す還流と通流で描かれる還流とが即自的に一体をなしていたのに対して,資本・収入の形態的循環とそれらを媒介する貨幣の通流運動とが再配置される。

ふーん、そうですか

出発点への貨幣の還流運動は,第8稿第3篇においてはじめて「法則」として示される。

「商品流通の正常な経過のもとでは,流通に貨幣を前貸しする商品生産者の手もとに貨幣が帰ってくる」(第8稿)

これが一般的法則である。

とうことは、資本家は労賃、設備・光熱費、原材料費に加えて、流通にも貨幣を前貸ししているということになるのかな。

ここでは,貨幣の通流が形態的復帰とは切り離された上で,商品流通の正常経過の反映としての貨幣の形態的復帰=還流法則が,単純な商品流通場裏に復元,定着させられている。

再生産過程では,社会的取引の大流れの枠組み(閉鎖体系)のもとで,階級間を媒介する貨幣個片の通流が貨幣の出発点への復帰として,すなわち貨幣還流を描いて現れるという関係として,明確に把握されるのである。

ここもさっぱりわからない。かなり宮川さん、すっ飛ばしている。ほとんど見出しだけの文章だ。まぁ、あとで説明があるのかもしれない。とにかくついていこう。

以上のごとく資本循環論の確立の諸指標を紹介した。

これまでの資本の循環運動は貨幣流通を媒介とせざるを得ない、したがって貨幣流通量に規定されざるをえなかった。

しかし第8稿で示された資本循環論は,このような制約から解き放たれた。

新しい資本循環論は、自立した循環運動としての資本循環の意義と地位を確定した。

これをもって、資本循環論は「再生産論」の範疇の中にしっかりと据えられることになった,

…なんだそうです。

7. 再生産論を資本循環論で基礎づけることの意義

まだこの節は続くのだが、「資本循環論の確立の3つの指標」についての説明が終わったので、新たに節を起こす。

さっぱりわからなかったが、とにかく新たな資本循環論は3つの発見によって完成した。

それでこの資本循環論を使うと再生産論がいかにスッキリするかという話に入る。

まずはマルクスの少々長い引用から。

「生産物の“転態”は生産物の流通を意味する。この流通は、同時に資本の再生産を包括する。

資本の再生産は不変資本、可変資本、固定資本、流動資本、貨幣資本、商品資本への資本の再形成をも包括する。

この生産物の“転態”は、たんなる商品の売買(貨幣による)を前提とはしていない。

重農主義者たちとアダム・スミス以来の自由貿易学派は、商品と商品との転態だけが資本の再生産の前提だとしたが、決してそれにとどまるものではないのである」(第8稿)

このへんでおぼろげながら見えてきたのは、生産物は商品ではないということ、生産物が資本になるためには貨幣を直接の仲立ちとする必要はないということである。

生産物の“転態”といえば、“W’-G”ということになる。ただし資本主義の初期であればW’は商品であり、Gは貨幣ないし貨幣資本ということになっていたのだが、今やその枠に収まるものではなくなった。

だから、再生産と資本の回転の立場から見れば、W’はあくまでも生産物であり、Gは資本ということになる。

“転態”は売買や貨幣が介在してもいいが、なくても十分やっていける。貨幣資本という形態を介在させる必要はないのである。

肝心なことはどういう経路をとったとしても、生産物が最終的に資本になればいい。あえていえば“W'-W"”である。

それでは貨幣資本はどうやって獲得するか、とりあえずであれば蓄蔵貨幣を動員したり、信用を利用するなどいくらでも方法はある。

これらは再生産過程の繰り返しの中では、半ば自明のことであるが、資本循環そのものを単独で取り扱う場合には見過ごされる可能性がある。

その結果、宮川さんの言葉によれば、

資本循環の運動がまさに流通手段(貨幣媒介)や他の資本循環・収入規定などとの絡み合いの関連として問われるときに,これまでの資本循環論の認識の不備や未熟があらわになる。

ということになる。

ということでよろしいでしょうか。
それにしてもマルクスの原文より解説文のほうが難しいというのも困ったものだ。